更新日:2020年10月7日
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大正9年生まれ。水原秋桜子門を経て、全国俳誌「橡」(堀口星眠主宰)同人となり、平成6年から橡山形県支部長を務めるとともに、山形市において、昭和48年から橡・紅花俳句会を主宰し、月刊俳誌「紅花」の発行や創作活動、後進の育成指導にあたるなど、長年にわたり県俳壇に尽力した。
平成4年から県俳人協会会長に就き、平成6年からは(社)俳人協会評議員となり、山形市における俳人協会東北地区大会の実行委員長などを務めた。
昭和62年10月から63年12月まで、朝日新聞やまがた俳壇の選者、平成元年1月から山形新聞俳壇の選者をつとめ、現在に至る。また、句集を刊行し高い評価を得ているほか、全国の俳句雑誌にも作品や評論を多数発表している。
句集「君子蘭」「雪国のまつり」、合同句集「紅花」
山形県俳人協会会長、山形県俳句連盟会長、(社)俳人協会評議員、土屋眼科医院院長
昭和5年生まれ。長年にわたり、明治以降の県関係の文学(短歌・俳句・詩・小説・戯曲・随筆・児童文学等)について、精力的に評論を発表しており、本県文学界の発展に貢献している。特に、既に埋没し、あるいは埋没しつつある作品についても丹念に目を配り、優れたものや特筆されるべきものを発掘し、新たな評価を付しながら紹介し続けている。
「やまがた文学への招待」「やまがた文学風土誌」「本の郷土館」
評論は、精緻な読みと人間性あふれる洞察に満ちており、一般読者には文学世界への関心を触発し、現代の作家には好意的な示唆と励みを与えている。
日本近代文学に関しても研究を続け、多くの論文を発表し、高い評価を得ている。
「樋口一葉研究」「樋口一葉」「川端康成『掌の小説』研究」「田沢稲舟」
山形女子短期大学教授
昭和8年生まれ。山形交響楽団を設立し、山形県をはじめ東北地方の音楽文化、とりわけオーケストラの普及発展に尽力し、貢献する。山形交響楽団は、現在年間約200回の演奏会をこなすまでに成長し、その演奏活動範囲は東北6県をはじめ、関東、信越、北海道にまで及んでいる。また、定期演奏会は今年で100回目を迎えた。
設立者でもあり、常任指揮者でもある村川氏は、演奏活動の中でも「音楽鑑賞教室」と呼ばれる小中高等学校での演奏会には、特に力を入れており、山形交響楽団20余年の活動で延べ約2800校210万人の児童生徒に感動を与えている。
楽団の存在は、地域社会にも大きな影響を与えており、地元の史実や民話等を素材としたオペラやオーケストラと合唱のための作品創作に結びついており、これらは全国的にも先駆的であり、確実に山形県の音楽財産となっている。
山形交響楽団の常任指揮者のかたわら、楽団設立当初より子供の弦楽器教育研究を行い、入門のための(ヴァイオリン・チェロ)テキストを出版し、山形では成立しにくい弦楽合奏団(キラキラ会)を主宰するなど、オーケストラの弦楽器奏者の育成にも尽力している。
山形交響楽団常任指揮者
昭和5年生まれ。昭和28年に東京芸術大学美術学部絵画科を卒業後、昭和29年に東北現代美術協会を結成し、当該協会の代表として、現在まで90回の展覧会を開催するなど、本県美術界の発展に尽力している。
また、海外においても、昭和59年にブラジルで、平成6年に中国で東北現代美術協会の国際展を開催し成功に導いている。
主な油彩作品「祭」、「巒気」、「如12」
美術系を目指す若人に対し、その卓越した基礎指導により人材育成に力量を発揮している。
また、はやくから生涯教育を重視し、40年にわたって社会人の描画活動発展に尽力している。
フランス、カナダ、キューバ、ペルー、中国等の国際美術展に出品して高い評価を得、国際的な文化交流にも貢献している。
「行6」、「空8」、「天地人」
「胡空」、「前田春治パステル画集」
山形女子短期大学教授、山形芸術学園講師
大正15年生まれ。高校演劇、青年団演劇等を中心に、50年余の長きにわたり演劇指導、脚本執筆等に精力的な活動を行い、本県演劇の振興に多大の貢献を果たしている。自作の脚本のもとに指導を行い、昭和29年から連続5年間にわたり大石田高校をして東北大会優勝、全国大会出場の栄誉をもたらした。
また、大石田高校の卒業生により「ヤマナシ演劇研究会」を結成し、町民劇場として定期公演、移動公演を行い新風を巻き起こした。
北海道新得町の開拓史を戯曲「北飛翔」に著し、地元高崎の人々を指導して舞台化し、新得町と東根市で公演を行い、両市町の友好締結に大きな効果を挙げた。
随筆集「山ばなし里ばなし」、「子規の山形路」、「高崎の戦後50年史」
戯曲集「峠の小春」、「花冷え」、「北飛翔」
東根市文学会長、東根市高崎公民館館長
平成6年 山形県教育功労賞
1646年(正保3年)庄内酒井藩から分封した松山藩が、観世流の能楽を藩の式楽と定めたことに由来する松山能を、明治以来引き継ぎ、積極的な演能活動を行いながら、保存継承に取り組んでいる。
地域においては、自らが建立した皇大神社の能楽堂を舞台に明治以来行っている奉納公演や、松山城三の丸跡大手門前で行われる薪能、名勝総光寺の庭園前で行われる雪の能など、地域に根差した積極的な公演活動を行い、地域文化の向上に寄与している。
後継者の指導、育成についても、自治会単位に謡の会を組織し指導を行ったり、松山小学校の狂言クラブの指導や松山里仁館高校での仕舞指導など、積極的な取り組みを行っている。
最近では、その高い芸術性から公演依頼も多く、県外はもとより海外でも積極的に公演活動を行っている。
昭和3年生まれ。昭和21年結城哀草果に師事し、山形に疎開中の齋藤茂吉の指導を受ける。昭和25年アララギに入会し現在まで精力的に作歌活動を行うとともに、(財)齋藤茂吉記念館研究員を務めながら調査研究を続けている。
「齋藤茂吉の造語」、「齋藤茂吉の万葉観」、「茂吉と最上川-最上川の表現考-」
天童市高擶短歌会(月例歌会235回)をはじめとして県内各地の短歌会の指導に当たるとともに、茂吉の人と作品に関する講演や執筆などを通じて、茂吉文学の顕彰と短歌の普及活動を積極的に行っている。
(財)齋藤茂吉記念館研究員、山形県歌人クラブ事務局長
昭和59年 山形県歌人クラブ賞(第1回)
大正12年生まれ。創立(昭和22年)間もない本間美術館に勤務し、昭和31年、同美術館に築窯されるとともに楽焼を始めた。昭和35年から楽茶碗の制作・研究に取り組みはじめ、昭和40年からは、日本橋三越をはじめ各地で個展を開催している。黒楽茶碗、赤楽茶碗など、いずれも格調高い作品、作風には定評があり、「本間焼」としてその名声を全国に広めた。
その陶工としての技量が高く評価され、昭和61年には、常陸宮殿下に黒楽焼茶碗を献上した。
全国で個展を開催するとともに、楽焼の普及とその技術的レベルの向上を図るため、幼稚園、学校、公民館等において庄内にとどまらず県内各地で楽焼教室を開催するなど、現在も精力的な活動を続けている。
大正11年生まれ。日本民踊研究会島田豊年氏に師事後帰郷し、民踊師範として市町村の指導、郷土芸能の掘り起こし等に尽力した。
昭和45年に山形県民踊協会を設立し、初代会長として、スポーツ民踊の提唱振興、県内の古い民踊の復活に精力を注ぐとともに、協会設立以来、今年まで28回にわたり、「健康をつくるレクリエーションの集い・民踊まつり」を開催している。
べにばな国体や山形新幹線などを題材に新しい創作舞踊を手掛けるとともに、海外公演等も積極的に実施するなど、精力的な活動を通じて、本県民踊の振興に貢献している。
山形県民踊協会会長、日本民踊研究会山形県支部長
平成5年 文部大臣賞(体育功労)
明治44年生まれ。大正12年鶴岡高等女学校(現:鶴岡北高校)入学、小貫博堂氏に絵の指導を受けた後、女子美術専門学校(現:女子美術大学)日本画師範科に進学、昭和7年同大学を卒業。萩生天泉氏に師事する。終戦後帰郷し、日本画の研究制作に取り組む。
昭和30年には白甕社に参加。日本画部門を引き受け、熱意をもって後進の指導育成にあたる。
昭和54年には有志で佳陽会を結成し、日本画の指導にあたり、学習制作活動を継続、現在会員は30余名で、毎年発表会を開催している。
また、鶴岡市内で各種日本画講座の講師も務めるなど、永年にわたり、日本画の普及、水準向上に尽力し、美術文化の振興発展に寄与した。
白甕社副委員長、新興美術院参与
鶴岡市政功労者(平成9年)、新興美術院展、東京都知事賞、京都市長賞、日本美術協会賞、山形県総合美術展、県議会議長賞(昭和26年)、第40回記念展賞(昭和60年)
大正13年生まれ。昭和28年、新庄演劇研究会を結成、会長として数多くの上演を重ねるとともに、周辺町村への移動公演や少年少女演劇教室を開催し、新庄・最上地域における演劇活動の普及に貢献してきた。また、平成7年には「新庄市民演劇祭」を提唱、今年第4回を重ねている。
昭和47年には「山形県高等学校演劇連盟」を創設し会長を務める一方、鑑賞する側のレベル向上のため高校芸術鑑賞の組織化を図った。さらに49年には各県に先がけて「山形県高等学校文化連盟」の創設を提唱している。
昭和30年には、若くして新庄文化団体協議会会長を務め、現在の新庄市芸術祭を創設。平成5年からは同協議会を前身とする新庄市文化団体会議(41団体/会員2350名)の会長、最上地区芸術文化団体協議会会長、山形県芸術文化会議監事の要職にあり、地域芸術文化の中心的存在として、経験と豊富な人脈を生かし各芸術文化団体の活動を支え、指導している。
新庄市文化団体会議会長、新庄演劇研究会会長、最上地区芸術文化団体協議会会長
県民芸術祭大賞(昭和61年 創作劇「成敗」)
昭和5年生まれ。昭和20年代から県内中学校、高等学校の教員として教鞭をとる傍ら、近世史研究に取り組み、特に河川水運を中心とした近世経済史、米沢藩等の藩政史の研究に顕著な業績をあげ、県内近世史研究の第一人者の地位を確立した。
主著「近世河川水運史の研究」
昭和45年からは山形大学で近世史研究の指導にあたる一方、「山形史学研究会」「地域史研究協議会」等における活動を中心に山形県内における地域史研究の指導的役割を果たし、後進の指導、地域の研究者の育成にも尽力し、山形県地域の歴史研究の水準向上に大きく貢献している。
山形県史の編纂、県内市町村史の編纂に参画、編集執筆にあたるとともに、県内の歴史をわかりやすくまとめた概説書を執筆するなど、本県の歴史の理解・普及に大きく貢献している。
また、平成6年から現在に至るまで山形県文化財保護審議会委員として、県内文化財の保護に尽力している。
山形大学名誉教授、山形県地域史研究協議会会長、山形県史編集委員会委員長、山形県文化財保護審議会委員
大正10年生まれ。これまで高校・大学教育に携わるかたわら、昭和文学、新生学術研究会に所属し、文学並びに短歌の研究とその普及に努め、郷土文化の発展に寄与している。
齋藤茂吉の研究においても造詣が深く、「齋藤茂吉と仏教」の主題で酒田短期大学研究紀要に掲載される等、数々の著書や論文を発表している。
地域文化の振興を図り、短歌教室等の講師として指導、また、歌誌等を編集、刊行している。
山形県芸術文化会議副会長、酒田市芸術文化協会会長、山形県歌人クラブ副会長、阿部次郎文化賞選考委員会委員長、酒田短歌会会長
昭和3年生まれ。東京に生まれ、昭和20年、山形に疎開し、まもなく木彫を始め、昭和23年の県美展初出品、美術協会賞を受賞。以後、今日まで山形で彫刻活動に従事し、県美術連盟の常任運営委員として県彫刻界で主要な役割を果たしている。
県外においても東京・大阪・京都・名古屋で個展を数多く開催しているほか、県内では山形市西光寺釈迦像、大石田乗船寺本尊阿弥陀如来像の修復、最上義光歴史館の最上義光・駒姫像の制作等、県の美術振興に大きく貢献している。
平成11年 山形県芸術文化会議賞
大正3年生まれ。昭和52年、米沢・置賜地区茶道団体「まこと会」会長となり、上杉神社献茶祭、天然忌茶会、利休忌茶会や、チャリティー茶会等を継続実施し、特に、昭和57年から平成10年まで米沢茶道連合会会長として、茶道文化の振興に寄与した。
表千家同門会山形県支部発足以来、昭和61年まで事務長、更に副支部長として活躍し、本県は勿論東北地区における指導者として尽力している。
平成5年6月には表千家全国大会が山形県を会場に開催されたが、その誘致や茶会大会等の運営全般にわたり、指導的役割を果たし、本県の茶道会のイメージアップに大きく寄与した。
平成2年に、米沢市が旧上杉氏邸を買い上げて「座の文化伝承館」を設置したが、この事業推進にあたり、企画、建設、運営全般にわたり、茶室を中心に大きな役割を果たしてきた。
表千家山形県支部参与、米沢茶道連合会名誉会長(平成10年~)
昭和10年生まれ。農業やゴミ処理業等を営むかたわら、現代詩の制作に情熱を注ぎ、思想性の高い詩集を多数発表し、多くの読者に深い感銘を与えるとともに、現代詩の一つの方向を示した。
主な詩集「生きている家」、「何かが欠けている」、「わが八月十五日」、「まぎれ野の」、「マギノ村・夢日記」
自己の職業である農業とゴミ収集業を通してみた社会批判をエッセイやルポルタージュとして発表し、地球規模での環境問題に対し指導的役割を果たしつつある。
主な小説・エッセイ集「減反騒動記」、「田園の大逆襲」、「まぎの村百姓日記」、「ゴミ屋の記」、「収集車・人民服務号」
3期8年7ヶ月にわたり上山市教育委員会教育委員として文化の振興に尽力し、現在も上山市文化団体協議会会長として地域芸術文化の振興に取り組んでいる。また、上山市社会教育委員を通算8期16年歴任。
上山市文化団体協議会会長、上山市文化懇談会会長、上山市振興審議会委員、土井晩翠賞運営委員(仙台市)、真壁仁・野の文化賞運営委員並びに選考委員、詩誌「山形詩人」発行者、(財)山形県遺族会副会長、(有)北方清掃役員、その他
昭和27年敗戦後の混乱の中、市民自らの手で作られた当時全国でも珍しい市民オーケストラであり、古い歴史と伝統、実力を誇る東北有数のアマチュアオーケストラである。現在は20歳代から70歳代まで82名の団員がいる。
演奏活動としては、春季にファミリーコンサート、秋季に定期演奏会を行っている。
ファミリーコンサートについては、曲目の構成を一般聴衆に親しみやすいよう心掛ける、あるいは本格的な管弦楽曲について一流の話し手による語りを交えるなど、クラシック音楽の一般への普及に様々な工夫をこらしながら尽力を続けている。
一方、秋季の定期演奏会については、中央から専門の指揮者を招聘するなど、演奏技術の練磨と質の高い演奏の提供に努力している。
大正8年生まれ。県内高等学校に教師として勤務するかたわら、古代遺跡や重要文化財の発掘調査、郷土史の研究等に多大の貢献を果たすとともに、各種伝説集や研究書を執筆発行するなど、60年余の長きにわたり精力的な活動を行い、貴重な文化遺産の保存と保護思想の啓発に大きく貢献した。
伝説集「主寝坂峠」、「出羽今昔物語」、「山形の地名伝説」、「山形県の地名」、「置賜の民話」、「山形の石碑石仏」、「山形のまつり」、「置賜の石碑石仏」、「出羽の民俗芸能」、「小野小町」、「獺の越所」
長年にわたる研究に裏打ちされた郷土史に対する深い造詣から、市史等の編纂委員として、山形市史、上山市史、鮭川村史、高畠町史(顧問)、中山町史の編集、執筆に携わった。
平成7年から山形県文化財保護協会会長として、専門部会の設置、専門委員の委嘱など同協会の活性化に大きな役割を果たした。また、山形県からの委託により、同協会では平成10年度から図録「山形県の文化財」編集委員会を組織したが、その委員長として中心的に活動している。
山形県文化財保護協会会長、山形市郷土文化研究会会長、鮭川村文化財保護審議会会長
昭和6年生まれ。英語教諭として県内各高校に奉職するかたわら、昭和59年に退職するまでの間、山形新聞の詩壇の選者を担当したほか、河北町婦人文化教室で現代文学の講師を務めるなど、つねに後進の育成に尽力するとともに、河北町文化財指定委員なども歴任し、同町の文化振興にも貢献してきた。
昭和28年の処女詩集「夜の焦点」の刊行以来、巧妙な比喩を駆使した、独自の境地を示す作品群を発表しつづけて、詩の世界に新しい風を送り込む先駆となり、県詩壇の活性化につながるものとなった。また、構築した詩的世界に安住せず、常に変化を求める特異な作詩姿勢を有し、新しい詩集を刊行するたびに、新地平を開拓するものとして、批評家の瞠目するところとなっている。
常に県詩壇の先端を駆け、近年はとみに円熟味を増し、西洋近代詩のレトリックを自在に駆使し、独自の詩境を確立した詩集「きぬずれ」「すれすれ」「きずな」は、詩人の到達した地平を示す完成度の高い詩集として注目され、山形詩壇の収穫との評価を受けた。
「山形文学」同人として、高次元の詩的世界を構築するための精進を怠らず、その創作力はますます旺盛で、今後とも詩的変容の予感を孕んだ活動に期待が寄せられている。
「夜の焦点」「魚の泪」「さかなに捧げるオード」「きぬずれ」「すれすれ」「きずな」
現代詩人会会員・「山形文学」同人
昭和5年生まれ。昭和22年に助教諭として採用され、子どもらに絵・版画の指導を行うかたわら、独自に木版画の創作活動を行う。昭和30年に故平塚運一氏に師事し、翌年には日本版画協会展に初出品初入選し、それ以降3回連続入選を果たす。昭和36年に事故の後遺症のため右手右足が不自由になり教職を退くが、そのハンディをのりこえ、その後40年間にわたり木版画の創作活動を継続し、その作品は高い完成度を有している。
茅ぶき屋根の民家、故郷の山河といった自然や子どもを題材に、黒一色のモノクロの中で、黒と白の織り成す空間は、雄弁に多彩なイメージを喚起させ、「バランスのとれた感性を白とし、確かな素描力を黒とした版画家である」と評されている。
昭和55年・平成2年には、日本板画院の第30回及び第40回記念展長井巡回展の開催に尽力し、ギャラリー十字路設立・運営にも力を入れ、広く地方の地道な美術活動に貢献している。
作品は、児童文学誌「もんぺの子」や民話、童話の挿絵として掲載されており、県内の文化活動への貢献も大きい。
日本板画院同人(理事)、東北現代美術協会会員、県美術連盟会員(運営委員・県展委員)、県芸術文化会議会員、やまがた児童文化会議会員
昭和10年生まれ。山形県芸術文化会議常任理事として本県日舞界を一本化し、社団法人日本舞踊協会山形県支部を設立。その支部長として重責を担い、初年度事業として文化庁主催の移動芸術祭邦舞公演を招聘、その幕開けに県支部会員が出演する長唄「紅葉笠」の振付・構成・指導を行うなど、本県日舞界の第一人者として活躍。
山形に研究所を開設して以来45年間定期的に古典と創作舞踊の公演を行い、特に郷土に根ざしたものに題材を求め、相次いで創作舞踊を発表しており、その姿勢は、本県日舞界では例を見ないものである。
山形女子短期大学幼児教育講座など、子どもの情操教育にも積極的に携わるとともに、後進の指導に努め、数多くの師範名取を輩出し、夫々が県内各地で中心的存在となり活躍している。
花笠まつりの企画・振付・指導などに尽力し、日本を代表する「まつり」に育て上げ、山形県観光キャンペーンにも積極的に協力し、ニースのカーニバルほか各国のジャパンウィークに参加。最近では外務省より日本の代表としてエジプト派遣の依頼を受け演出・振付・指導を行うなど、本県の観光に貢献している。
べにばな国体・ねんりんピック・全国スポレク祭における振付・演出・指導や諸外国における実技指導、講演活動など、国内外において本県のイメージアップに貢献している。
花柳衛優舞踊研究所主宰・(社)日本舞踊協会参与・(社)日本舞踊協会山形県支部長・花柳流花柳会東北支部委員・(財)山形県生涯学習文化財団理事・山形県芸術文化会議常任理事・山形市芸術文化協会常任理事・山形県花笠協議会舞踊指導員会会長・山形県民謡振興会名誉教授
昭和54年 山形県民芸術祭芸術祭賞(花柳衛優舞踊研究所)、昭和61年 山形県芸術文化会議賞、昭和62年 山形県民芸術祭優秀賞(創作賞)(えゆう会)、昭和62年 婦人栄誉賞(国際ソロプチミスト)、平成元年 山形県民芸術祭大賞(えゆう会)、平成6年 山形県民芸術祭準大賞(花柳衛優舞踊リサイタル)、平成11年 山形県教育功労者表彰・婦人栄誉賞、平成13年 山形県商工観光功労者表彰
昭和7年生まれ。昭和29年に須藤克三氏とともに「山形童話の会」を組織し、地域に根ざした児童文学の創造と普及活動をめざして児童文学誌「もんぺの子」を発刊し、現在まで104号を刊行している。須藤克三氏没後、会の代表として児童文学の創作者の育成・児童文学の普及活動の中核として指導的な役割を果たしている。
昭和36年に同氏の著作「山が泣いてる」が第1回日本児童文学者協会賞を受賞したのをはじめ、昭和48年度には歴史児童文学「オイノコは夜明けにほえる」が全国図書館協議会による課題図書に選定されるなど、山形県の児童文学を全国に発信する口火を切る役割を果たすとともに、児童文学の創造・普及の活動に全国から注目を集めた功績は大きい。
昭和43年から30年以上にわたり、夏休みの「おさらい帳」に山形の子どもを描いた作品を載せ、その活動から生み出された山形のすぐれた児童文学は、作品集「ねこつり大作戦」や「山形の童話」に集成されるなど、すぐれた童話が生み出される活動の企画・牽引役を果たしている。
昭和20年代後半から30年代にかけて、本県を中心に全国的に巻き起こった生活記録運動に参加し、昭和32年に生活記録を文学にまで高めようと、真壁仁氏を中心に「山形農民文学懇話会」を組織し、その編集委員として「地下水」を発刊、その後の「地下水」の活動の原基を形成している。
「山が泣いてる」「オイノコは夜明けにほえる」「本・そこにいる私」
山形童話の会代表、日本児童文学者協会評議員、天童市文化団体協議会副会長、山形県芸術文化会議常任理事、山形市芸術文化協会常任理事
大正9年生まれ。全国にも誇り得る男性合唱団「コール・マイゼン」の代表を歴任し、また、メンバーとして昭和23年の創立以来54年もの長きにわたって中心的活動を続け、これを基盤に山形県芸術文化の発展のために多大の貢献をしている。
既に、教育者としての功績が認められ、叙勲(勲五等瑞宝章)、文部大臣教育功労者賞を受賞するなど広く芸術文化面での功労が大きい。
毎年盛大に開催されている山形市民音楽会の実行委員長として十数年の長きにわたって音楽関係団体をまとめるなど学校音楽そして広く一般の音楽発展向上のために尽力し、現在も、山形県芸術文化会議の常任理事として、また山形市音楽振興会会長、山形県男声合唱祭実行委員長としてその発展のために尽力している。
山形市立南小学校校歌(作曲)、山形市立桜田小学校校歌(作詞・作曲)、山形市立村木沢小学校創立100年記念歌(作曲)、和楽器と声楽アンサンブルのための組曲「最上川」(作詞)
山形県芸術文化会議常任理事、山形市音楽振興会会長、山形県男声合唱祭実行委員長
昭和3年、鶴岡市内の子供の舞踊講習会から舞踊学園を創設し、本年で学園創立74年を迎える。現在、鶴岡・酒田・新庄に練習の場を持ち、広く指導と創作の活動を継続し、本県の文化に大いに寄与している。
戦時中は新潟市を中心に活動を続け、「新潟市音楽芸能史(新潟市刊行)」において、新潟市での洋舞踊の草分けとして掲載され高く評価されている。昭和31年には東京公演を行い、地方舞踊団体の中央進出の起爆剤となった。山形県ジュニア舞踊の会の開催や東北支部合同公演、県内における様々な芸術祭での公演など精力的な活動を続けており、長期にわたり脈々たる情熱で現代舞踊の研究と普及を通して、地方の芸術文化の発展に貢献している。
昭和3年からその活動の記録をもち、戦前・戦中・戦後を通して一貫して舞踊芸術の研究と普及に尽くした団体は全国的にも数少ないものである。また、現代舞踊の草分けとして、山形・新潟両県に評価されていることは、芸術文化団体として存在価値が高く意義がある。
昭和55年に我が国洋舞界の変遷を記した年表・戦前の写真等を編集した「踊跡」を出版し、地方文化史としても貴重な記録として関係各方面から称賛を博した。
昭和6年生まれ。永年にわたり、書道の普及活動を通じて山形県の芸術文化振興に尽力している。
書道愛好者への指導の他、山形県書道連盟常任顧問として後進の指導・育成にあたる他、各書道展等の審査員を歴任し、さらに県内一の書道展である山形県総合書道展の運営委員長・審査委員として尽力している。
読売書法展地方会場全国6カ所のうち、東北・北海道展を開催以来、連続山形市に誘致し、その実行委員長となる。東北・北海道書道界のリーダーとして山形県芸術文化振興に尽力している。
日本最高峰の展覧会である日展の委嘱作家として活躍しており、永年の功績が評価され、日展(5科)審査員に委嘱され、現在日展会員・審査員として尽力している。
書道研究欅墨書院会長、山形県芸術文化会議常任理事、東根市芸術文化協議会顧問
大正9年生まれ。大学在学中から、密教と密接な関係にあった山岳修験や霊山の研究を志し、特に東北全域の霊地霊山を隈なく踏査し、その研究成果として昭和52年に著した「東北霊山と修験道」は山形県に止まらず東北全域をとらえた研究として注目された。
教職は青森県、宮城県、山形県と3県にわたり、昭和41年山形女子短期大学に招聘され、以後平成11年まで子弟の指導にあたり、この間、永年にわたる教育界への貢献と功績により、文部大臣表彰を受賞した。
教職のかたわら研究を行い、平成3年に「東北の一山組織の研究」という前人未踏の分野を解明した研究書を発表した。この学術書が高く評価され東北大学から文学博士の称号が授与された。東北一円の霊地一山を網羅した大著で、学界の注目を浴びた。
民俗学にも造詣が深く、現在山形県民俗学研究協議会と村山民俗学会の顧問を務めている。
洞光寺住職、山形短期大学名誉教授、寒河江市文化財保護委員会委員、寒河江市市史編纂委員会委員長、山形県民俗学研究協議会顧問、村山民俗学会顧問
昭和7年生まれ。山形県の自然とりわけ植物をライフワークとして調査を重ね、県内では植物地理学上最後に残された貴重な植物群の分布地域である山形盆地の中南部、特に宮川流域の沖積台地と接する里山・山地に注目し、関東ムツ区系や北方系の植物、暖地系シダ植物を発見して新分布地の確認を行うなど、その生態や植物分布の謎を解き明かす貴重な調査研究に尽力し、植物の研究に指導的役割を果たしている。
山形県文化財保護指導員、山形県自然環境保全審議会委員などの役職を務め、山形県の自然環境の保全と文化財の保護に貢献している。
講演及びフィールドワークなどを通じて、上山市内の貴重で豊かな植物群や植物分布から見た地域の特色などについて市民にわかりやすく解説・案内し、豊かな自然に対する愛着や郷土愛の醸成に日々努めている。
山形県教育研究所と山形県立博物館での研究のほか、校長時代は文部省指定の研究校として多大な研究成果を収めるなど、学校経営に手腕を発揮した。
「山形県の帰化植物」「山形の自然:動物・植物」「山形県の自然科学」「樹氷とべに花の里・山形の自然」「やまがたの山菜」
上山市立図書館長、上山市文化財保護審議会委員
平成9年 山形県教育功労者表彰
昭和5年生まれ。小・中・高等学校教諭として児童生徒の指導を務める傍ら、「山形文学」、「蒼玄」、「白津」、「音叉」同人として活躍し、永年、詩、評伝、エッセイ等で人間の原質に迫る広範かつ秀逸した文筆活動を続け、本県の芸術文化の発展に寄与した。また、昭和47年から3年間、やましん詩壇選者を務め、高村創、佐野カオリ、松田達男等の詩人を詩壇に送り出すとともに、昭和58年から8年間、朝日新聞やまがた文芸時評を執筆し、わかりやすく明快な解説で読者を文学の世界に誘うなど、後進の育成や文壇の底辺拡大に尽力した。
「第18回国民文化祭・やまがた2003」の文芸祭・現代詩大会において実行委員長代行を務めるなど、県内の様々な文学祭運営にあたって指導的な役割をはたし、成功に導いた。
小・中学校での作文指導では、読売新聞社主催の第24回全国小・中学校つづり方コンクールでの全国入賞を始め多くの入賞者を出し、なかには教科書に採用された作品もある。
山形県詩人会会長、山形県芸術文化協議会常任理事、東根市芸術文化協議会理事、日本文藝家協会会員、丸山薫少年少女文学賞「青い黒板賞」選考委員、東根市さくらんぼ図書館協議会会長
平成13年 第24回山形県芸術文化会議賞
大正14年生まれ。歌人の父 結城 健三 氏や童謡詩人の兄 結城 よしを 氏の影響を受け、昭和15年頃から短詩型文芸に興味を持ち、文芸誌への投稿を始めた。
以後、今日まで童謡詩人として活躍を続け、これまでの作詩数は5,000篇に及ぶ。昭和52年には自身が作詩した「レモン色の露よ」がNHK音楽コンクール課題曲に採用され、続いて昭和56年には「うしろから誰かに」が全日本合唱コンクール課題曲に採用されている。
昭和12年、兄 結城よしを 氏により創刊された童謡誌「おてだま」を、昭和23年、復刊し、その後現在に至るまで、全国の会員や作曲家、出版社などに向け「おてだま」の編集発行を続けており、山形県の文化振興に貢献している。
「おてだま」は息の長い地方誌として評価されており、発行巻数は平成16年10月現在で659号に至っている。
大正10年生まれ。昭和40年、武田正 氏(平成2年 齋藤茂吉文化賞受賞)等と共に置賜民俗学会の結成に加わり、以後、置賜地方はもとより県域を越えて全国的な視野で民俗学の調査研究を続けている。研究領域は、年中行事から人の一生、衣食住、民間信仰、民俗芸能までと幅広く、各種の「石造文化財」や「講」、「民話」、県指定無形文化財「深山和紙」、「ハヤマ信仰」、「蚕の民俗」等の研究が代表的なものである。なかでも全国各地に足を運びまとめた「天白信仰」の研究は特筆すべきものがあり、白鷹町史や南陽市史、米沢市史等の市町村史(民俗編)も数多く執筆している。
昭和51年には地域の仲間と「柳田国男を読む会」を結成し、以後、平成元年まで月例会を重ね、機関紙「雪国の春」を毎年発行した。
俳諧の研究者としても著名であり、また、自ら会長を務める「白たか子供の本研究会」では、手作りの紙芝居によって子供たちに昔話を語って聞かせるなど、広く社会教育活動に取り組んでいる。このことが評価され、平成元年には社会教育功労文部大臣表彰を、平成15年には第33回野間読書推進賞を受賞している。
「深山紙」「小国の民俗風土記」「祠風土記」「置賜の庶民生活史1・2・3(共著)」「天白信仰調査覚書1・2」「水鏡1・2」「民俗夜話」「蚕の民俗」「山野草の民俗」「二人三脚置賜霊場巡り」「梵字 探訪」「和田東潮考」「遅日庵杜哉考」
置賜民俗学会副会長
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