更新日:2021年12月15日
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齋藤茂吉(さいとう・もきち)略歴
明治15年5月14日、山形県南村山郡金瓶村(現上山市金瓶)の農業守谷伝右衛門の三男に生まれる。14歳のとき上京、浅草医院に寄宿、後年、同院長齋藤紀一(のちの青山脳病院長)の養子となる。第一高等学校より東京帝大医科大学を経て、大学付属病院に勤務(明治44年)、精神病学を専攻する。一高時代正岡子規の短歌にひかれ作歌を志す。伊藤左千夫に師事、以後「アララギ」の編集にたずさわる。
長崎医学専門学校教授のとき、文部省在外研究員として渡欧(大正10年)、オーストリア・ドイツにて学び、医学博士(大正13年)となり、帰朝(大正14年)後は青山脳病院の院長(昭和2年)に就任する。
作歌は万葉集をその精神の基盤として“短歌写生の説”を実践、“実相観入”を提唱、これを追求しつづけた。
歌集は処女作の『赤光』(大正2年)刊行より、最終の遺歌集『つきかげ』(昭和29年)に至る17冊に及び、そこに収められた作品は約14,000首(全作品数約18,000首)にのぼる。
その間『柿本人麿』の業績により学士院賞(昭和15年)を受け、研究、歌論、評論、随筆と多才を示し、論争も激しかった。『齋藤茂吉全集』全56巻・全36巻がある。昭和12年に芸術院会員、昭和26年には文化勲章を受章する。
第2次大戦中は郷里金瓶の齋藤十右衛門方に疎開(昭和20年)、間もなく東京の病院、自宅を空襲のため失い、郷里で終戦を迎える。翌年大石田の二藤部兵右衛門の離れに単身移る。この間に絵筆をとり日本画にも親しむ。昭和22年帰京し、家族とともに生活するが、体力とみに弱まり、昭和28年2月25日心臓喘息のため死去した。満70歳9ヶ月。
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