更新日:2020年10月7日

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齋藤茂吉文化賞受賞者31-40回

第31回(昭和60年度)

細谷大作(ほそや・だいさく)《河北町》

大正2年生まれ。水原秋桜子、名和三幹竹に師事して句作に励み、俳誌「馬酔木」の山形における中心的同人・本県あしび会代表として活躍している。

俳誌「ひまわり」、山形新聞「やましん俳壇」及び芭蕉忌俳句大会の選者としても活躍、昭和57年からは山形県俳人協会会長として地方俳壇の指導的役割を果たしており、本県文化向上に大きく寄与している。

河北町における芸術文化活動の指導者として活躍、地域文化の向上に貢献している。

佐藤正巳(さとう・まさみ)《山形市》

大正9年生まれ。漆工芸(乾漆)の作家として、昭和32年から連続28年間日展入賞し、特に昭和34年には、日展特選北斗賞を受賞する一方、日展審査員2回、日本現代工芸展審査員2回を務め、さらには、山形県美術連盟運営委員、山形県民芸協会理事長代行、山形美術館評議員として活躍、工芸分野のみならず、広く本県の芸術文化活動の高揚に尽力している。

昭和54年から、山形大学教授として後進の指導育成に努めるとともに、山形県卓越技能者選考委員、山形県優秀美術品買上げ選考委員として、新人美術家等の発掘に尽力、積極的に応援するなど、県内陶工界の指導的役割を担っている。

昭和48年、東北現代工芸美術家協会の発足に尽力、初代会長に就任、以来毎年公募展を開催するとともに、東北各県美術展・津軽漆器展の審査員、秋田川連漆器、山形県金山町杉細工等の指導に当たるなど、その活動範囲は広く、東北地方の芸術文化のレベル向上に多大の貢献をしている。

加藤武雄(かとう・たけお)《山形市》

大正10年生まれ。昭和20年、山形師範学校に奉職以来、一貫して、主に山形県内の河川・湖沼・温泉などの地球化学的調査や研究を行い、初めて山形県の陸水の学問的な体系づけを行った。

この研究成果をもとに、山形県最上川水資源開発調査会委員など、温泉・水質・公害などに関する山形県や山形市の審議会に参画し、行政にその専門的立場から大きな貢献を行った。

専門的な学術論文だけでなく、多くの解説的論文や著書を発表し、陸水の重要性の啓発や陸水に関する地球化学的研究の普及に寄与するとともに、県内各市町村から委託された調査・研究にも精力的に取り組み、地域社会の発展に貢献した。

第32回(昭和61年度)

笹喜四郎(ささ・きしろう)《新庄市》

明治42年生まれ。明治41年創設以来、時流を超越したが如く、連綿として活動を続けている俳諧連歌の会「北陽社」の主幹を務め、芭蕉以来の古い伝統のある俳諧の継承、後進の指導育成に尽力している。

新庄市文化団体会議会長の職にあり、市教育委員会の各種登録文化団体の活動に深い理解を示し、永年の教員生活で培った経験を活かし、広範囲にわたる芸術文化活動の指導者として、地域文化振興に尽力している。

新庄市史編集委員長として郷土史の調査研究・編集の中心になり、また、県の文化財保護指導委員(最上地区担当)、新庄市文化財保護審議会副会長を務め、文化財の保護に尽力するとともに、地域住民の文化財に対する意識の啓発向上に活躍している。

木村 正(きむら・ただし)《天童市》

大正11年生まれ。昭和23年に「天童ドラマグループ」を設立し、以来会長となり毎年定期的に演劇公演を行っている。今日まで38年の長きにわたり活動を続けているアマチュア演劇グループは全国でもまれであり、さらに、昭和50年以降、毎年自ら創作劇を執筆・上演しており、昭和59年には天童児童劇団を発足させるなど、特色ある地域演劇活動として注目されている。

昭和33年山形県演劇連盟の発足と同時に会長に就任、さらに昭和51年県アマチュア演劇懇話会の結成以来会長を務め、県アマチュア演劇界の指導育成に尽力し、また、昭和39年劇作家同人会「ドラの会」を結成、会長に就任し、劇作家養成に努めるとともに、天童市文化団体協議会長として、永年地域文化の高揚に寄与した。

阿部酉喜夫(あべ・ゆきお)《寒河江市》

明治42年生まれ。広範囲な分野にわたって地域史の調査・研究を行い、特に慈恩寺文化を総合的・体系的に研究した最初の人であり、歴史的、文化的価値を明らかにし、保存及び復元についても大きく貢献した。また、県文化財の旧西村山郡役所、郡会議事堂が解体・修理され市郷土館として活用に至ったことについても、氏の力によるところが大きい。

和歌等の古典文学の研究、地域の無形文化財などの伝統的文化の研究・発掘・保存に努めるとともに、寒河江市古文書研究会、西村山地域史研究会を結成し、地域住民への学習機会の提供、地域史の指導者育成等に尽力、また、地域史についての幅広い分野にわたる研究書を著すなど、地域文化の高揚に貢献した。

第33回(昭和62年度)

西村直次(にしむら・なおじ)《山形市》

明治39年生まれ。結城哀草果に師事してアララギ会員となり、以後創作活動を続けているが、特に、哀草果の研究に精力的に取り組み、多くの著書・編書がある。

多くの学校の校歌や生徒会の歌、応援歌の作詞をするとともに、現在、山麓短歌会編集委員、同選者及び山形新聞歌壇選者として活躍し、後進の指導及び本県歌壇の振興に尽力している。

教職在職中は、国語教育に関する理論・指導力に卓越したものがあり、本県国語教育界に貢献した。

霄友会(しょうゆうかい)代表者 会長 相藤朴翠《中山町》

「清新にして新鮮、時代にふさわしい書」を求めて昭和35年に発足以来、古典を基礎にした現代書の研究団体として毎年会員展を開催する一方、研究会、錬成会等を実施して活発に活動を続け、県内における現代書の普及に大きく貢献した。

会員からは、毎日書道展及びサンケイ国際書道展の審査会員、無鑑査会員等を多数輩出し、県内はもとより中央書壇でも活躍している。また、教育書道を重視し、会員展とあわせて教育部展(小、中、高校生対象)を開催するほか、多くの会員が各地で児童・生徒の指導にあたり、書道の向上発展に寄与している。

今泉亨吉(いまいずみ・こうきち)《米沢市》

明治36年生まれ。昭和41年に米沢古文書研究会を結成し、副会長として研究の先頭に立って活躍し、上杉古文書の研究をはじめ置賜地方の地域史の発掘に尽力した。

県文化財保護協会理事、県地域史研究協議会副会長、県史編さん会議員として県文化の振興に尽力した。

置賜史談会会長、米沢市立博物館協会副理事長、米沢市史編さん委員をつとめ、郷土の歴史・文化の振興に貢献した。また、調査研究した郷土の歴史を講演会や機関紙で発表するとともに、多くの著書をあらわしている。

第34回(昭和63年度)

鈴木啓藏(すずき・けいぞう)《上山市》

明治43年生まれ。アララギ会員として短歌の創作・後進の指導をするとともに、齋藤茂吉の作歌論・人物論等の研究に努めている。

齋藤茂吉記念館理事長として記念館の整備拡充・資料の充実に努めるとともに、県内外の茂吉歌碑の建設に尽力した。

齋藤茂吉追慕全国大会を企画し、年々これを充実させその定着に努めるなど齋藤茂吉の顕彰、業績の普及に尽した。

藤蔭竹枝(久間木たけ)(ふじかげ・たけえ)(くまき・たけ)《山形市》

明治44年生まれ。長年にわたり日本舞踊に精進し、自らの研さんに努めるとともに、後継者の指導に尽力している。

御製の歌「最上川」、茂吉詠歌「蔵王」をはじめとする数多くの曲について振り付けの創作にあたり、舞踊界の活動に新機軸を開くとともに、その普及とレベル向上に大きく貢献した。

県芸術文化会議の常任理事を長年つとめ、県内日舞界の取りまとめ役として優れた指導力を発揮するとともに、県民芸術祭の運営に大きく貢献した。

花笠まつりの中核的存在として踊りの振り付けの統一に努め、まつりの定着に尽力した。

吉田義信(よしだ・よしのぶ)《米沢市》

明治44年生まれ。長年にわたり地理学研究を軸として、郷土愛に根ざした地域の実証的研究に努めてきた。

米沢盆地北東部の大谷地のボーリング等の地質調査を行い、泥炭地の構造を明らかにし、県営土地改良事業に貢献した。

米沢盆地のかんばつと水害を防ぐため、羽黒川流域の積雪調査を行い、その研究成果をもとに水窪ダム建設の実現に努めるなど、地域開発に貢献した。

第35回(平成元年度)

岸田 隆(きしだ・たかし)《酒田市》

大正3年生まれ。昭和12年アララギ入会以来土屋文明に師事し、歌歴50余年に及ぶ研鑚により独自の歌風を確立した。

歌論集「『槐の花』と文明短歌」は、全国的な評価を受け、歌集も「河口の胡桃」「砂防林の空」など5冊を刊行し、いずれも高い評価を受けた。

歌誌「砂防林」を主宰、県歌人クラブ副会長、県アララギ会代表をつとめるとともに、茂吉忌短歌会選者、茂吉短歌ポスト選者、山新歌壇選者等をつとめ、歌壇における後進の指導をはじめとして地方文化の興隆全般に貢献している。

佐藤清光(徳太郎)(さとうせいこう)(とくたろう)《山形市》

大正5年生まれ。全国的に声価の高まった山形茶の湯釜の代表的作家であり、山形鋳物が昭和49年に伝統的工芸品の国家指定を受けたのに伴い、昭和52年に「伝統工芸士」に認定された。伝統的手法の上に新時代の感覚を生かした作風で、京都大徳寺から「御釜師」の称号を授与されており、「清光釜」「浄清釜」として全国的に高い評価を受けている。

その優れた技術を後継者の育成に惜しみなく伝え、山形鋳物・山形茶釜の発展・普及に努めている。

茶道関係事業に積極的に参加・協力し、茶釜等を名茶道団体に寄贈するなど、茶道の発展・普及のためにも尽力している。

山崎誠助(やまざき・せいすけ)《鶴岡市》

大正元年生まれ。昭和21年から39年までのNHKのローカル番組強化の時代に、鶴岡放送劇団・同児童劇団の作者及び指導者として活躍した。この間、ラジオのドラマ形式のものを中心に1,500回余の出演を数え、放送劇の脚本家、指導者として地域の放送文化に貢献した。

昭和39年に鶴岡放送劇団・同児童劇団を母体として劇団麦の会を発足させ、郷土に取材した創作劇を次々に発表し、地域の演劇界のリーダーとして活躍してきた。

昭和39年に鶴岡市芸術振興会議の結成に尽力するとともに、常任理事に就任、55年から副理事長(58年より鶴岡市芸術文化協会と改称、同副会長)となり、市の芸術文化の総合的振興に尽くしている。

第36回(平成2年度)

西田忠次郎(にしだ・ちゅうじろう)《新庄市》

昭和5年生まれ。昭和23年「えにしだ短歌会」会員となり、現在同短歌会運営委員及び選者をつとめており、昭和26年えにしだ短歌会新庄支部を結成し、以来毎月歌会を開催している。

病のため両眼を失明したが、身体の障害を克服し自宅で鍼灸院を営むかたわら、ますます旺盛な作歌活動、執筆活動を続けている。また、指導力は抜群で新庄市教育委員会からの依頼により、昭和47年から公民館の「短歌教室」の講師を続けるとともに、全国各地の短歌愛好者に対するテープによる添削指導をはじめ、新庄市内外の短歌教室の講義と実作指導を行っている。

昭和63年山形県歌人クラブ短歌大会で「短歌の実作と作法」についての講演を行い、その的確な指摘と指導は聴衆の称賛を博した。また、同大会で第3歌集「草木遙かに」が県歌人クラブ選奨歌集賞を受賞している。なお、平成2年より「やましん歌壇」の選者となっている。

横倉友次郎(よこくら・ともじろう)《山形市》

大正14年生まれ。昭和20年から鋳金の道に入り研鑚を重ね、金属のもつ材質特有の美しさを強調した新鮮な感覚と詩情のにじみ出る作品を造り、鋳金の分野に独自の作風を創りあげた。

山形における鋳金工芸の中心的人物で、伝統工芸発展のためという強い信念のもと後進に惜しみ無く技術を伝え、優秀な鋳金作家が次々と誕生している。

作家活動を始めたころから、県美術連盟の役員として県内美術作家のまとめ役となり長年尽力してきた。

武田正(たけだ・ただし)《南陽市》

昭和5年生まれ。置賜地方をはじめとして県内の民話の発掘・整理に取り組み、これを民俗学・口承文芸学としての立場から、その類型化、体系化を図るなど独創的な研究活動を続け、研究の成果を多くの著書・論文として発表している。

民俗研究の面でも、飯豊町中津川地区・寒河江ダム水没地区の民俗調査のほか、県の民俗調査・絵馬調査等の主要メンバーとして活躍している。また、地元においても置賜民俗学会会長として会員の指導・民俗学の振興に尽力しており、収集した資料を小冊子にまとめ100余冊発行している。

各種の学会に所属し活動を続けるほか、米沢市史編纂委員・南陽市史編集委員・県立博物館調査員等社会教育活動に幅広く関係し、研究の成果をこれらの機関を通して発表し、地域文化の振興に貢献している。

高等学校社会科担当教諭として、長年にわたり民話の調査研究を指導し、生徒に対し郷土に残る伝承文学の研究の重要性を認識させるとともに、実証的方法論の指導にもその成果をあげている。

第37回(平成3年度)

佐藤耐雪(さとう・たいせつ)《余目町》

大正12年生まれ。山田正平氏に師事し、篆刻と水墨画を学ぶ。昭和32年、日展書(漢字)部門で初入選。昭和33年、書・篆刻2部門で入選。昭和36年の日展入選の篆刻は、日展篆刻十傑に入る。

昭和57年、耐雪書道美術館を開設、全国300名の支持協力者を得て、入館料無料で運営。

書道発展を図りながら後進の指導にあたり、海外への指導も数多い。平成2年には、スペインのバルセロナ工芸学校で個展と社中展を開催、門下生とともに団長として日本文化の紹介に当たる。

田中哲(たなか・さとし)《山形市》

大正7年生まれ。「たらばすずんつぁん」「樹氷物語」など、山形を舞台とする優れた戯曲を執筆するとともに演劇団体の育成指導に努め、全国的にも高く評価されている県演劇界の今日の隆盛に多大な貢献をなした。また、劇団員だけという狭い上演スタイルから、舞踊・音楽と異なるジャンルの人々の参加へと拡大し、総合芸術として県内各地への普及に努めた。

県芸術文化会議の会長として県内文化団体をとりまとめるとともに、山形市芸術文化協会の設立、山形交響楽協会の会長としてその運営に、「国際ドキュメンタリー映画祭」の実行委員長として国際化時代の地域文化の発展に寄与するなど、山形県の芸術文化の中心人物として活躍している。

山形放送、山形テレビ、FM山形の設立に尽力し、放送を通じて県芸術文化の振興に果たした功績は大きい。

現在は、山形県芸術文化会議会長、FM山形社長を勤め、文部大臣表彰(地域文化功労者)を受賞している。

米沢児童文化協会よねざわじどうぶんかきょうかい)代表者 会長 高森 務《米沢市》

昭和33年、子供に夢と希望を与え、ふるさとを愛する心豊かな若者への成長を願い、主婦・自由業・企業人・公務員等のボランティア活動を母体に結成された。このような活動の具体化として「米沢の今と昔」や「ふるさと昔ばなし」、「郷土に光をかかげた人々」、「郷土の記事紹介」、「学校の見える風景」等の記事を主体とした『米沢こども新聞』を発行し、現在まで209号を数えるに至った。(現在は、『よねざわ小学生新聞』と『米沢中学生新聞』に分離して刊行)

この『米沢こども新聞』は、市町村合併当時の市民の結束に大きく貢献するとともに、基金づくりの際の演劇公演は地域の文化振興に大きな役割を果たし、また取材のための分校訪問では歌や紙芝居・人形劇などを上演し、地域の人々から深く感謝されている。

創刊20周年(昭和53年)には、それまで掲載された郷土出身の先人の中から30名を選び、『郷土に光をかかげた人々』として出版して小・中学校に寄贈したが、一般市民にも大きな反響があった。

また会員は、季節毎に公園の花壇に植栽を行うなど、積極的なボランティア活動が高く評価されている。

佐藤正四郎(さとう・しょうしろう)《長井市》

大正4年生まれ。中学校勤務の傍ら、埋蔵文化財の発掘に尽力し、これまで長井市十日町地内宮遺跡を始め、加賀塚遺跡、長者屋敷遺跡、白山森遺跡、河井山遺跡、白鷹笠松山遺跡、白鷹町称名寺裏遺跡など、広範にわたる数多い遺跡の発見と調査を実施し、大きな功績を残している。

遺跡発掘後の保存についても、積極的な活動を行って破壊を阻止するとともに、現代人の心に祖先の心を活かす試みに取り組み、「縄文むら」や「土偶広場」、「笠松塚遺跡公園」、「白山森公園」などとして整備されている。これらの取り組みは、遺跡保存の好例として全国的にも高く評価され、大きな反響を呼んでいる。

昭和54年地域文化振興会を創設し、地区公民館を拠点として、地域文化を基礎に新しい文化の創造を目指して各種事業を展開、地域文化振興に大きく貢献している。

現在は、長井市文化財調査会会長、県立米沢女子短期大学非常勤講師を勤め、山形県教育功労賞、米沢有為会賞、勲五等瑞宝章などの受賞歴がある。

第38回(平成4年度)

細梅久彌(ほそうめ・きゅうや)《村山市》

大正元年生まれ。県立高校の美術教諭、山形大学講師、羽陽学園短期大学教授を歴任しながら、美術教育に携わり子弟の教育に情熱を傾け多くの優れた人材を育成輩出した。自らの創作活動も活発で、昭和24年28歳で日展洋画部門に初入選して以来30数回の入選を重ねている(題材は、初市など人物群像が多い)。

昭和20年、示現会山形支部の創設に参加、会長等を歴任しながら荒廃した社会状況下の文化活動の重要性を訴えた。

県美展には設立当初から携わり、公募展としての育成発展に努め、また村山市の美術団体新光会を村山市美術連盟に発展させ、会長として後進の指導育成に尽力し、多くの作家を輩出した。

昭和40年、村山市芸術文化協会設立と同時に理事に就任、その後副会長を経て昭和50年からは会長として市の芸術文化の向上に大きく貢献した。

山形県芸術文化会議の常任理事を務め、各団体の育成振興を図り、県民芸術祭を通して本県芸術文化の向上に寄与した。

市社会福祉協議会への色紙展売上寄付や公共施設への作品寄贈など、社会への貢献も積極的である。

役職

示現会山形支部長、村山市芸術文化協議会顧間、村山市美術連盟顧問

受賞歴

平成元年村山市名誉市民、平成2年県芸術文化会議賞、平成3年日展洋画部門特選

(財)出羽桜美術館(ざいだんほうじん・でわざくらびじゅつかん)代表者 理事長・館長 仲野清次郎《天童市》

昭和63年5月に設立され、仲野清次郎氏が永年にわたって蒐集してきた陶磁器・工芸品等2,359点の寄贈を受け、現在にいたっている。

主な収蔵品は、李朝・新羅・高麗・百済の陶磁器と工芸品、近代文人の書、桜にちなんだ各種美術・工芸品・箱類、歌川広重の肉筆画などであり、これらが木造瓦葺の母屋と蔵座敷に展示され、伝統的な美しさと落ち着いた雰囲気の中で鑑賞できるようになっている。

本美術館は、天童市立美術館と連携(共同企画『近代文人の書展』など)するなど、地域の中に溶け込み、市民・県民はもとより天童温泉を訪れる人々の憩いの場として、また優れた美術を鑑賞できる文化施設として定着し、本県文化の向上に大きな貢献を果たしている。

近年、文化についても中央指向が強まっているが、各種美術・工芸品の展示を通して地域文化の向上に貢献するとともに、日本陶磁の源である李朝工芸を中心とした展示は韓国においても高く評価され、活発化する国際交流の中で隣国韓国との交流の一翼を担い、地方から全国に向けた文化の発信基地としての期待が高まっている。

受賞歴

  • 昭和63年 美しい街並み賞「山形経済同友会賞」受賞
  • 平成元年 大衆文化賞(財団法人山形県社会文化協会)受賞

加藤桃菊(かとう・とうぎく)《山形市》

明治38年生まれ。昭和5年、日本民謡桃菊会を設立し、以来60余年にわたり本県民謡界の中核として、各種発表会、練習会など活発な活動を展開し、本県民謡文化の普及発展と後継者の育成に尽力している。

大正年間から県内各地を調査し、埋もれた民謡の発掘に心血を注ぎ、紅花摘み唄を始め100曲近い民謡を甦らせている。その功績が高く評価され、民謡発掘の第一人者として全国に知られ、伝統文化の継承に大きく寄与してきた。これらの民謡は、放送等を通じて多くの人々に愛好され、名曲として今日も歌い継がれ、民謡の宝庫山形県の名を全国に知らしめている。

昭和25年、財団法人日本民謡協会設立発起人として、その設立に尽力し、設立後は名誉会員、名誉教授、山形第一支部長、評議員、山形県連合会会長、参与等を歴任、日本の民謡界発展向上に大きく貢献した。

役職

日本民謡桃菊会会長、財団法人日本民謡振興会参与、山形県民謡振興会名誉会長

受賞歴

山形県民謡振興会功労賞(昭和38年)、財団法人日本民謡振興会功労賞(昭和50年)、山形県民謡振興会民謡大賞(昭和52年)、勲五等瑞宝章受章(平成3年)

大友義助(おおとも・ぎすけ)《新庄市》

昭和4年生まれ。昭和28年から最上地区内の高校で教鞭をとる傍ら、公民館事業を主とした各種講座・教室、講演などの講師として、また各種委員として郷土史の調査研究・啓蒙活動に尽力している。

これらの活動の中から、「最上地域史研究会」や「古文書の会」などの自主学習グループが結成され、その指導を行いながら事務局活動も行うなど、郷土史研究家の育成と研究のレベルアップに貢献した。

昭和40年代から、最上地方の伝説や民話の採集を始め、「最上地方伝説集」や「最上の伝説」にまとめた。また、古老からの聞き取りに基づく「新庄のむかしばなし」を著すなど、埋もれていた伝説や民話を広く人々に知らしめた。

昭和61年、民話の発掘や語りべの育成等を目的に「新庄民話の会」を設立し、会長として毎月定例の民話サロンの開催や夏冬の民話合宿などを行っている。民話の会は、毎年2月に開催される「みちのく民話まつり」(平成4年で6回目)の中心団体となり、最上地域を民話のふるさととして全国に知らしめるなどの貢献をしている。

昭和39年から新庄市の文化財保護審議会の委員として、また平成3年からは県文化財保護審議会の委員として文化財の保護に尽力している。

役職

新庄市史編纂室長、県文化財保護審議会委員、県総合開発審議会専門委員、県教育史編纂委員、県地域史研究協議会副会長、県民俗研究協議会副会長

受賞歴

平成3年12月9日 文部大臣表彰(博物館振興の功)

第39回(平成5年度)

菊地隆三(きくち・りゅうぞう)《河北町》

昭和7年生まれ。日本現代詩人会会員、日本詩人クラブ会員として、同人誌「季刊恒星」「阿吽」などに幅広く現代詩を発表するとともに、詩集『転』、『鴉のいる風景』、『待つ姿のエスキス』によって、現代詩壇に独自の世界を披れきし、絶賛を得ている。

実生活に基づく人間味溢れる多くの随筆を「山形新聞」や「月刊やまがた散歩」等に発表し、それらをまとめた随筆集『花病』、『美の森に迷う』、『ものみなおかしみなあわれ』は、人々の愛読書として書棚を温めている。

最近は、同人誌「るる」や「山形文学」などに毎号精力的に創作を発表し続けている。その中の「咲いた桜に」「暗寝川」等は、文藝春秋杜発行「文學界」の全国同人誌評でベスト5に入っている。

常に地域医療の最先端にあって、その激務と闘いながら、「生の証し」を表現しようとしている。

役職

河北町文化財保護審議会会長

受賞歴

山形県芸術文化会議特別賞、山形県詩賞

髙村健一(たかむら・けんいち)《山形市》

大正14年生まれ。昭和20年代中頃から脚本作家の組織づくりに尽力し、「ドラマ・グループ」(昭和26年結成)や「銅鑼の会」(昭和39年結成)等の中心メンバーとして幅広い演劇活動を展開している。また自らも放送劇脚本では「寒駅」(NHK山形開局15周年1位)、「山の奥」(東北ラジオドラマコンクール1位)、「通信員」(新聞週間公募脚本全国1位)等を、戯曲では「歳月」(青年全国大会優秀賞)、「わが名は旅人」(県民芸術祭奨励賞)、「夜明の狼たち」(県民芸術祭優秀賞)等を執筆するなど、長年にわたり優れた活動を続け、本県演劇界の発展に大きく貢献した。

“山形ルネッサンス推進事業"として、県内民俗芸能とモダン・バレエ、演劇を融合した「青猪幻想」(平成2年度)、「天人ラプソディ」(平成3年度)、「紅花の里ふぁんたじあ」(平成4年度・国体スポーツ芸術)の脚本と演出を担当して公演を成功に導いた。

山形県芸術文化会議、山形市芸術文化協会等の設立に寄与するとともに、その誠実温厚な人柄から信望が厚く、請われて副会長、専務理事等の要職を務め、本県芸術文化の振興に大きく貢献した。

山形市社会教育委員をはじめ、市民会館、図書館の運営委員等を歴任し、特に、昭和58年から平成3年までは、山形市教育委員として、教育文化行政全般にわたり、その充実に尽力した。

役職

山形県芸術文化会議副会長、山形市芸術文化協会専務理事、県民会館運営委員、山形市民会館運営審議委員、山形美術館評議員、山形児童劇研究会副会長

受賞歴

山形県教育功労者表彰、全国市町村教育委員会連合会表彰

犬塚幹士(いぬづか・かんじ)《鶴岡市》

昭和7年生まれ。昭和31年5月、(財)致道博物館に勤務し、主に民俗部門の学芸員として民俗資料を中心に調査、収集、研究し、下記資料を国指定重要有形民俗文化財としてまとめあげた。

  • 「庄内地方のバンドリ」116点(昭和38年指定)
  • 「庄内地方の木製酒器」77点(昭和39年指定)
  • 「庄内地方の仕事着」126点(昭和41年指定)
  • 「大宝寺焼」134点(昭和42年指定)
  • 「庄内山村のくりもの」250点(昭和47年指定)
  • 「庄内浜及び飛島の漁撈用具」1937点(昭和50年指定)
  • 「最上川水系の漁撈用具」810点(昭和57年指定)
  • 「庄内の米作り用具」1800点(平成2年指定)

平成4年7月、荘内日報客員論説委員に迎えられ、民具、絵馬、芸能等に関する紹介と発掘に務めている。

下記の論著を刊行している。

『月山山麓月山沢・四ツ谷・砂子関・ニツ掛の民俗』(共著)、「山形県の仕事着」(仕事着一東日本編)、「山形県の漁業・諸職」(東北の生業2 漁業・諸職)、「庄内地方のバンドリ」(北海道・東北の民具)、「致道博物館の民具」(文化誌日本 山形県)、「庄内浜の浮子と沈子」など数編(日本民俗文化体系13技術と民俗(上))、ほか。

役職

(財)致道博物館理事・学芸部長、荘内日報客員論説委員、日本民具学会評議員、国立民族学博物館国内資料調査委員、山形県民俗芸能緊急調査指導委員、庄内民俗学会幹事

第40回(平成6年度)

金子阿岐夫(かねこ・あきお)《南陽市》

昭和2年生まれ。昭和21年、大石田町に疎開中の齋藤茂吉の手ほどきにより短歌と出会い、父板垣家子夫の影響を受け、短歌を志した。

昭和37年公立宮内総合病院に勤務、その後市内に医院開業の傍ら、宮内アララギ会を主宰する黒江太郎氏に師事し、黒江氏没後は宮内アララギ会を主宰し会員の指導にあたっている。宮内アララギ会は会誌『一本の道』を発行し、作歌活動を推進している。昭和63年アララギ同人となり、平成5年から山形県アララギ会代表に就任した。

また、米沢市・長井市・川西町の歌会の指導にあたるとともに、南陽市短歌大会を20数回主催している。朝日新聞やまがた歌壇の選者や山形歌人クラブ歌会の選者、全医師連JMC歌壇選者を務めるなど、その活動は県内外の高い評価を受けている。

昭和57年には長年の短歌創作研究活動の中から歌集『黄の光』を出版し、山形県歌人クラブ賞を受賞している。

現在、70団体1,000人が加盟する南陽市芸術文化協会の会長として、会の運営にあたり、市の芸術文化の向上振興に尽力している。

役職

南陽市・東置賜郡医師会会長、南陽市芸術文化協会会長、山形県アララギ会代表

受賞歴

昭和57年 山形県歌人クラブ賞

嚶鳴女声合唱団(おうめいじょせいがっしょうだん)代表者 阿部昌司《山形市》

本合唱団は、昭和48年7月山形西高等学校音楽部の卒業生有志によって結成され、本年で21周年を迎える。

山形西高等学校音楽部は多くの全国優勝を経験しているが、その部員たちが卒業後に就職、結婚、出産、育児などの人生経験を経て、職場・家庭などの困難な条件を克服しながら活動を続け、高いレベルを保持している例は、全国的にも稀である。

団員数は250名を数え、常時70名が活動を続けているが、これまで全日本合唱コンクール全国大会で金賞1回、銀賞2回、銅賞3回を受賞している。

合唱団の活動は、定期演奏会や市民音楽会などを主に、東京・京都・仙台などの県外公演も行っている。また、ウィーン、ローマ、パリなどでの海外公演でも高い評価を受け、山形市の姉妹都市であるキッツビューエルや吉林市などでの公演は、市民レベルでの国際交流に大きく貢献している。

さらに、数多くのレコーディングも経験しており、それらの作品は文化庁主催の芸術祭に参加し、本県文化の高揚に大きく貢献している。

受賞歴

(社)全日本合唱連盟・朝日新聞社主催全日本合唱コンクール全国大会金賞(昭和61年)、銀賞(昭和62年、63年)、銅賞(昭和48年、50年、54年)

加藤 稔(かとう・みのる)《山形市》

昭和6年生まれ。40年余にわたって考古学の研究に従事し、とかく不鮮明であった県の古代の解明に多大な成果をあげるなど、功績顕著である。

研究業績については、『東北日本の旧石器文化』(雄山閣・平成4年刊)を始め数々の著述があり、特に県内および東北の旧石器時代研究については学会の高い評価を得ており、この分野では、県内の第一人者である。

昭和26年以来、県内各地の遺跡発掘調査に関わり、その報告書の執筆・編集にも当たるなど、埋蔵文化財の保存に貢献した。一方、その過程で後進の育成にも力を尽くし、研究者層の充実をもたらした。

  1. 東北で最も早い時期の旧石器遺物の探索と発掘を行った。(朝日村越中山遺跡)
  2. 高畠町日向洞窟等の研究において、日本における土器出現期の文化様態を分析して、旧石器文化との関連を解明した。
  3. 細石刃文化の発掘調査により、本州北部の旧石器文化とシベリヤ文化との関連を確認した。(大石田町角二山遺跡)
  4. 最上川流域の前方後円墳の築造時期を確定し、体系化した。

山形県史や県内の市町村史の執筆編集にも当たっており、幅広く活躍している。

役職

東北芸術工科大学教授、山形考古学会会長、山形県文化財保護審議会委員、山形市文化財保護審議会委員


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