更新日:2024年7月31日
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サークル誌「ひろば」を受け継ぎ、それを脱皮させようとする動きの中で、昭和31年、「山形文学」創刊号を発行した。
栖坂聖司、村岡勇次ら「ひろば」時代からの人々を編輯・発行人とし、真壁仁、佐藤總右、芳賀秀次郎、斉藤林太郎等の詩人、須藤克三、大野敏英、安食昭展等の評論、小倉俊生、後藤紀一、鈴木昌一、岡田久子、柴田道司、新関岳雄らの小説をめざすグループが大同団結の形をとり、一つの雑誌に拠った。
創刊号は、「ひろば」を引き継いだ名残りとして「山形文学」第七集と名づけられたが、以降、たえず新しい書き手を紹介し、多くの優れた作品を生み続けている。
「山形文学」第十八集(昭和37年11月)に掲載された後藤紀一の「少年の橋」は、「文学界」に再掲載され、ついで昭和38年上半期の芥川賞を受賞した。また、「山形文学」第二十集(昭和39年12月)に掲載された柴田道司の「川の挿話」は、昭和40年上半期の直木賞候補筆頭に挙げられるなど、山形県の文化の向上に果たした功績は大きい。
明治37年生まれ。大正9年酒田高等女学校(現酒田西高等学校)を卒業し、上京。大正12年東京音楽学校(現東京芸術大学)を卒業後、大阪府立寝屋川高等女学校、京都市立堀川高等女学校に奉職し、昭和15年には宝塚歌劇団に招かれ、声楽教授として幾多の歌手を育てるとともに、同時にNHK大阪中央放送局放送合唱団の指導に当たった。
終戦後、酒田に帰郷し、昭和21年には酒田ボーカルスタジオを主宰・開設し、地方の児童生徒及び勤労者に対する声楽、合唱、ピアノの指導普及に精力的に取り組み、後進の育成に尽力した。このことが、シャンソン歌手の岸洋子やテノール歌手市原多朗などの著名な音楽家を生み出すとともに、中央の著名音楽学校へ多数の進学者を送り出すこととなり、地域の音楽に関する水準を著しく高める成果をあげた。
昭和31年には、多くの困難をのりこえ、東北地方で初めてと思われる勤労者によるオペラの上演を企画し、サリバン作曲の「ミカド」公演(酒田市・山形市)を成功させた。続いて昭和33年には、高度の水準を要するモーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」に取り組み、酒田公演2回、鶴岡公演1回を成功させた。これが中央の音楽評論家園部三郎氏の絶賛を博し、翌昭和34年4月には京都においても公演を行った。また、昭和39年にはオペラ「椿姫」を8回にわたって酒田市で公演した。
これらは、東北地方においても特異な存在であり、山形県の音楽水準の高さを認識させるものとなり、文化の向上に大きく貢献した。
明治38年生まれ。考古学者で古文書解読の権威。ギリシャ、ラテン、ヘブライ語に通じ高畠町の日向洞窟の調査を行い、その成果は縄文草創期の確立となり、世界的な反響を呼んだ。
山形県立山形中学校・山形高等学校を経て昭和5年京都帝国大学卒。同大学院へ。日本古文化研究所調査員、関西学院大学教授を経て帰郷、昭和22年山形師範学校教授。昭和25年山形大学教授。昭和45年山形大学定年退官、山形大学名誉教授となる。
「雪野寺跡調査報告」、「山形県の古墳」、「山形県農地改革史」、「山形獄中の陸奥宗光」、「山形県の無土器文化」、「山形県史資料篇2.」、「山形県議会80年史」(全4巻)、「本間家文書」(全8巻)
永年にわたって本県美術文化、とくに日本画の振興につくし、絵画グループ「春光会」を主宰して、多くの優秀な子弟を育成し、門下から日展、院展などの入選者を多く出している。中央でも、新興美術院の幹部会員をつとめた。
昭和26年4月に、谷地の舞楽(国の重要無形民俗文化財「林家舞楽」)を正しい姿で伝承保存することなどを目的に設立された団体である。会員数は2,600人を数える。
林家舞楽は山形県西村山郡河北町谷地に鎮座する谷地八幡宮神職の林家に伝承されている舞楽で、谷地八幡宮例祭で毎秋9月14日、15日に、寒河江市の慈恩寺一切経会で5月5日に舞われる。
舞楽は、中国、朝鮮から渡来し大阪、奈良、京都に楽所が置かれ伝承されてきたが、谷地八幡宮の舞楽は、林家に所蔵される『舞楽由緒』によると「貞観2年(860年)僧円仁に従って四天王寺楽人林越前が山寺根本中堂で舞楽奏す。以来、一子相伝にて舞楽を司る」とあり、今日にその家憲を守り伝承している。林家の継子が13歳になるとはじめて舞いを奏し、一子相伝の継承の秘儀がある。
林家舞楽は舞楽の原初的要素を保ちつつ、地方化したものとして顕著な特色を有するものである。なお、林家には嘉暦4年(1329年)の「舞楽図譜」が保存されている。
東京高等師範学校研究科の卒業論文「最上川の水運及び輸送物資に就きて」を手始めに、最上川舟運等山形県内の交通路の歴史地理学的研究や、新開集落、街道集落等山形県内の聚落成立過程の研究に精力を注ぎ、詳細な研究論文を残した。集落の発達過程を知るため、自ら多方面の調査を行い、古地図、古記録類等の資料にあたるとともに、赤湯町町史や大石田町史の編集執筆も担当し、さらに、飛島資料による日本海海運の研究にも顕著な成果があった。
「山形県地誌」(昭和8年)、「改訂山形県地誌」(昭和17年)、「新訂山形県地誌」(昭和48年)など
「山形県交通史」、「大石田町町誌」、「飛島誌」など
「東北の聚落」、「山形の聚落」、「鳥海山麓の新開集落の研究」「上杉藩の郷士集落の研究」、「坂野辺新田の発達」、「金井村誌附谷柏村御用留帳」、「置賜地方の豪族集落」など
明治25年生まれ。真宗安楽寺第十四世住職。俳人。名和香雨の長男。本名、香宝。
明治41年、真宗京都中学に入学し、学内の白雨会で俳句を作りはじめ、砕花と号した。「懸葵」の句会にも出席するようになり、三幹竹と改め、大正2年帰省の途次、東京に大須賀乙字を訪ねて入門した。この年大谷大学に入学。
大正4年「石楠」創刊同時に客員となり、乙字の「人生と表現」にも投句した。大谷派管長大谷句仏上人の知遇を得、「懸葵」の同人となり、大正5年よりその編集を担当し、雑詠選者となった。その後昭和9年自坊安楽寺に帰郷するまで、名門「懸葵」の編集選者として京都俳壇に重きをなし、乙字門の人材を多く養成した。帰郷後も安楽寺にて「懸葵」の選者編集にあたるが、昭和18年句仏上人の死去と戦時体制で、昭和19年12月、第41巻4号で休刊のやむなきにいたり、戦後昭和24年8月復刊したが、編集発行に人を得ず、昭和26年7月廃刊、古い歴史を閉じた。
県内では、やましん俳壇の選者をつとめ、戦後俳誌「銀嶺」「ひまわり」を創刊主宰し、郷土俳壇に寄与するところ多く、昭和42年、齋藤茂吉文化賞を授与された。没後、河北町名誉町民の称を贈られた。
「懸葵」編集者時代には「月嶺句集」「乙字句集」「懸葵第一句集」等の編集が多いが、昭和42年「三幹竹句集」が刊行され、没後、昭和54年、嫡嗣香薫により「三幹竹遺稿」が出版された。
杉沢は鳥海山西麓に位置し、古くから鳥海山登拝口の一つとして開かれた所である。村の鎮守熊野神社は、もと鳥海山二之王子熊野大権現と称し、上寺修験順峯(じゅんぶ)二之宿であった。
杉沢は入峯(にゅうぶ)修行の二之宿にあたり、修験が活動してきた集落であった。比山番楽の起源は修験達によって創始された番楽で、鎌倉期に発生したといわれている。その後明治の神仏分離の世になると、地域住民達(他所の者は入れない)によって伝承されている。
この番楽は修験達によって演じてきた神楽で、能楽が大成する以前のいろいろな芸能の要素を含んでいる。かつて24曲あったが現在は14曲を伝えている。毎年旧盆の8月6日を「仕舞」、15日の「本舞」、20日を「神送り」と三夜にわたって奉納される。
舞台は拝殿前向かって右側の仮設舞台(垂れ幕で楽屋と仕切っただけ)で、夜遅くまで笛、太鼓、銅拍子、小太鼓等の囃子の音で、舞手はほとんど無言で謡に合わせて踊る。
明治38年生まれ。東村山郡山辺町山辺出身。上山農学校卒業後、家業の農業に従事するが、家産が傾き経営不能となり、19歳で新聞記者となる。以後、昭和13年まで記者生活をする。その間、旧両羽銀行頭取三浦新七博士が組織した「山形県郷土研究会」に入り、郷土史研究に取り組む。昭和6年には月刊雑誌「山形郷土研究」を創刊、主宰する。
昭和13年、満州開拓事業に参加、上京して、財団法人満州移住協会に入り、大陸に往復すること数回、終戦を迎える。その間、「佐倉浩二」のペンネームで小説戯曲等を執筆発表する。
終戦後、帰郷し文筆活動、また「山形日報」編集局長などを経て、昭和30年山形市中央公民館館長に就任。その後、山形市史編纂刊行に従事し、精力的な資料調査・執筆活動を行う。
永年、郷土史の探求、文筆活動を続け、地域文化史、伝記、山形市史等、広範な執筆領域と鋭利正確な史観には定評がある。また、新聞・雑誌に発表された研究成果や随筆は膨大な数に上り、読者に深い感銘を与え、地域文化の啓発向上に寄与して来た。
「郷土の伝説」(大正15年)、「山形県議会史」(昭和26年)、「やまがた明治零年」(昭和35年)、「やまがた史上の人物」(昭和40年)、「山形県史拓殖満州編」(昭和46年)、「やまがた女人群像」(昭和53年)、「山形市史」(昭和40~57年)、「後藤嘉一著作集」(昭和53~54年)
明治37年2月22日北村山郡大石田町に、父金次郎母ハキの長男に生れた。本名金雄。大正2年父死亡して、母と二人の生活をつづける。大正10年県立村山農学校卒後、作歌を志し文芸誌「泰山木」を発行し、結城哀草果と文通し訪問を受けた。大正13年徴兵検査に合格し、11月同町の小山キミと結婚した。大正14年東京近衛歩兵第二聯隊に入営、10月「アララギ」に入会、結城哀草果の選にて出詠した。在隊二年にて除隊し、帰宅後は家業の薪炭米穀商に専念した。
昭和8年秋上京し、齋藤茂吉を訪れて入門を許可された。昭和支那事変に召集され、9月大陸に渡り、従軍2年余にして帰還し、歌集「征戦」を上梓した。昭和22年に歌誌「芦角集」を発行し、1月戦争疎開の齋藤茂吉を大石田に迎え、翌22年11月まで手厚く世話を尽くした。昭和22年結城哀草果中心の歌誌「山塊」の発行に従事し昭和41年6月歌集「礫底」を出版し好評を博した。
さて、板垣家子夫は父の血を受けて義侠に富み友情に厚く、利害を越えて公益に尽くした。殊に疎開中の恩師齋藤茂吉の作歌生活に尽くした功績は、茂吉の歌と共に永久に輝くのである。(結城哀草果記)
昭和3年楯岡市生まれ。昭和28年山形大学を卒業して楯岡高校の教諭に就職した。同年示現会の会友になり、本格的に洋画家を志した。その後第5回日展に初出品し以後毎年入選した。一方昭和38年第16回示現会展に出品し、玉置賞を受け大いに自信をつよめた。それと同時に教職と画業の一致せざるを悟り、教職を辞して厳しき芸術大成に踏み切ったのである。かくして洋画に向ける執念と熱情を抱き、安孫子昭は第1回の渡欧を実行し、昭和39年5月三世紀の歴史を持つフランス政府展のル・サロンに初出品して銅賞を受けた。この無名の一日本青年画家に対し、各国60名の審査員が歓声を挙げたのである。これを機として、サロン・ド・ジュビジイ国際展、アンデパンダン選抜10人展等にも招待出品するなど、巴里に於ける活躍はめざましく、昭和40年ル・サロン展には連続名誉の銀賞を受けて意気揚揚と帰国したのである。
昭和42年安孫子昭は第2回の渡欧を実行して、ル・サロン展金賞を受け、日本大使館に於て、名誉の受賞レセプションが催された。かくして日本青年画家安孫子昭の名声が世界的に高まり、フランス新聞がそれを激賞した。彼は今年11月帰国するがその洋画の勢運止まることを知らない。(結城哀草果記)
大正4年12月6日、埼玉県秩父市に生まれる。昭和8年埼玉県立秩父農林学校卒、以来、埼玉県三峰高山植物園、満州国立大陸科学院植物研究室、東京大学附属小石川植物園、財団法人服部植物研究所などを経て、昭和32年米沢市嘱託、同37年米沢市博物館に勤務、同42年同館学芸員となる。
専門は植物の分類と栽培および菌類で、とくに原始ゼニゴケ、冬虫夏草の研究は世界の学界に高く評価されている。日本で発見された冬虫夏草は140種あるが、このうち100種は同氏の発見によるものである。
日本全土、および満州、朝鮮の山野をくまなく抜渉し、昭和39年には日本菌学界派遣の「南太平洋地域学術調査団」の一員として、3ヶ月にわたり同地域の菌類の調査研究に当たった。
また、その精緻(せいち)を極めた学術画は神技と評価されている。
なお、県立白布熱帯植物園、滑川高山植物園は同氏の指導によるもので、また、米沢市の秋の名物行事となっている「きのこ展」も同氏の提唱、指導によるもので市民は同氏を「きのこ博士」と愛称している。
日本植物学会、日本菌学会、日本爬虫類学会の各会員。(小野栄記)
明治43年東置賜郡宮内町に、銀行員であった父辰太郎、母きぬの長男に生まれた。昭和3年米沢中学校卒業、同年日本歯科医学専門学校入学、同校で山蔦正躬(第八回齋藤茂吉文化賞受賞者)から「赤光」の初版本を借用して読み、茂吉に感動し短歌の道に入る。同校在学中に、同校の教授で歌人の太田水穂の指導を受ける。昭和10年郷里宮内で歯科医を開業のかたわら、鈴木北溪主宰の歌誌「短歌街」に参加、昭和18年「アララギ」に入会、昭和20年晩秋、上山市金瓶に疎開中の齋藤茂吉を結城健三(第九回齋藤茂吉文化賞受賞)の紹介で訪ねる。このときが茂吉との初対面である。
昭和21年東北アララギ会「群山」に参加、22年「山塊」に参加、歌集には13年「山径集」、17年「すがな」、31年「湖盆」がある。36年「漆山又四郎」、41年「窿應和尚と茂吉」を著作出版した。一方、20年来、宮内短歌会を指導し置賜短歌会の隆盛をはかった。また宮内文化史研究会長として、「宮内町の文化財」などがある。
「窿應和尚と茂吉」「湖盆」は好評を博し、結城哀草果をして「氏はあくまでも真摯な歌人である。そしてその作品は執拗に苦吟するから、あたかも碧潭を見入るごとき深い湛えと光とゆらぎがある」と言わしめた。
明治37年岡山県岡山市大字牟佐1645番の1に、小学校教師であった父彦三郎、母京の長男に生まれた。岡山中学校卒業、病弱であったため進学がおくれ、昭和4年早稲田大学文学部英文科入学、同7年卒業、同大学演劇博物館に勤務し演劇誌「美術殿」を編集。坪内逍遥に大学に残るよう勧められるが、昭和11年東宝に入社、新劇、歌舞伎、大衆演劇に評論の筆を執る。昭和18年日本演劇社入社「日本演劇」「演劇会」の編集部長その他各種演劇団体の常任幹事、常任委員、協会事務局長、コンクール審査委員長等を勤める。昭和20年6月山形市に疎開、移動演劇「舞台座」、秋田の「協同座」の演出、NHK仙台・山形両放送劇団を指導、昭和22年山形産業高等学校の英語教師にむかえられる。そのかたわら自立演劇、学校演劇、職場演劇を指導し「公共演劇」を編集、昭和29年高校教師を辞め岡山県と山陽放送の嘱託、松竹音楽舞踊学校、東京舞踊学校教師、国際演劇協会日本センター嘱託等を経て昭和37年山形県嘱託、著書に昭和17年「現代新劇論」、18年「国民演劇論」、19年「新劇40年」、21年「素人演劇」、29年ジョセフィン・ティーンの「フランチャイズ事件」、30年ES・ガードナー「咆える犬」を翻訳、43年「近代日本戯曲史明治編」、44年「大正編」等がある。
明治30年南村山郡東沢村滑川に、農業を営む父半次郎、母きなの次男に生まれた。東沢尋常高等小学校高等科卒業後、建築関係の仕事に携わりながら謡曲の修業に入る。大正5年浦山吉三郎(山形市下条町)、大正6年滝井佐一郎(山形市香澄町)に師事、大正8年23才のときに、山形市円応寺町出身で先代梅若六郎の高弟土田快助に師事、同氏の勧めで能楽修業のために上京、修行のかたわら日立製作所・東洋電気株式会社大宮鉄道工場等で謡曲を指導、昭和10年梅若六郎を訪ね直門を許さる。昭和20年4月戦災をうけ、郷里山形市に帰り、以後、能楽界随一の指導者として数々の業績をあげた。昭和41年多年能楽の向上発展に力を尽くし本県文化の振興に寄与した功績により山形県教育功労者表彰を受ける。主なる著書に「結婚式の順序となる心得」があり、郷土の慣習を近代化するための好著として好評を博している。
現在、山形芸術学園常任講師、山形県芸術文化会議運営委員、山形梅若会代表として斯界の発展に活躍している。
明治29年東田川郡余目町に、農業を営む父清三郎、母てつよの長男に生まれた。庄内中学校卒業後家事に従事するかたわら、古文書、古記録、先史考古学の先覚者阿部正巳を松嶺町に訪ね師事。後に酒田市立光ヶ丘文庫の白崎良弥、佐藤正吉の指導を受ける。歴史を知るために文献以外のものを求めて古美術の調査研究に入る。氏の発掘によるものの代表的なものとして昭和11年飽海郡遊佐町直也字山田在の、永泉寺境内から石造九重層塔一基を発掘。その後の調査で同塔は東禅寺城主志村伊豆守の供養塔と判明、昭和15年東田川郡加茂町字加茂在極楽寺境内から宝筺印塔三基発掘、同年東田川郡狩川町字楯山在北館神社社宝、色々威胴丸発掘。その後の調査で同胴丸は最上家親所用の物を北楯大学が拝領したもので我が国有数の胴丸と判明、これらは、いずれも県の有形文化財に指定された。
氏はまた、仏像、神像、甲胃等古美術研究の第一人者でもある。著書に山形県文化財報告書「山形県の甲胃」、「山形県の彫刻」の他「余目町史年表」、「庄内の文化遺産」等がある。これらの文化財の調査と保護に尽くした功績により昭和34年高山樗牛賞受賞、昭和43年勲五等瑞宝賞叙勲。
明治30年西置賜郡長井村五十川(現長井市)で農業を営む父貞次、母りんの三男に生れた。地元の致芳尋常高等小学校、農業補習学校を卒業家業に従事する。氏は幼少の頃より短歌・俳句等文芸に秀ぐれ、大正9年24才でアララギに入会。農業のかたわら本格的に歌道に入る。翌10年上京し、赤羽の陸軍被服本廠に就職。勤務のかたわら「アララギ」の編集者島木赤彦に師事する。「アララギ」入会3年にして生活を歌った一連の作品が島木赤彦の激評するところとなり同人を許さる。
縁先のとうきび畑に月照りてをりをり風のとほるすがしさはその時の作品の一つである。
島木赤彦没後、齋藤茂吉に師事する。戦後郷里に帰り短歌誌「山塊」、「群山」によって作歌活動をつづけ、後進の指導にあたる。氏の作風は歌人結城哀草果をして「氏の作品は生活車輪の響き合う音である。その車輪はレールの上を、または舗装路上を快速してゆくという音ではなくて、砂礫の上に軋み、濁流を渉り、あまつさえ火焔の中をくぐって往くというにふさわしい生活車輪である」と評せしめたほど氏の真摯な生活態度がにじみでたものである。
同会が保存継承するものは、能と歌舞伎である。この民族芸能は西田川郡山戸村山五十川(現温海町)に伝わるため地名を冠して山戸能、山戸歌舞伎と呼んでいる。山戸能の創始は貞観年間と言い伝えられるが、本格化したのは天正年間で部落の守護神河内神社の神事として上演され今日におよんだのである。謡は観世流と言われ狂言は、羽衣、竹生島、春日龍神等15種類他に式三番叟、恋慕の舞等の舞がある。山戸歌舞伎は、神楽から変型したものと伝えられ宝永年間に歌舞伎として定着した。狂言は大阪夏の陣、朝顔日記等30種がある。以来山戸能と共に河内神社の神事として毎年5月2・3日の例祭、12月31日の塞土祭に部落の人々により奉納されている。山戸能は4百年間の歴史を歩み続け昭和39年3月7日山形県の無形文化財に指定された。
大正4年南村山郡鈴川村(現山形市)で紙漉業を営む父長吉、母たけの長男に生れた。地元の鈴川尋常高等小学校鈴川青年学校研究科を卒業家業に従事するかたわら同校在学中校長板垣季治の指導を受け、郷土史研究の道に入る。のち川崎浩良(第一回齋藤茂吉文化賞受賞者)に師事し、戦前鈴川村の史跡を調査し「鈴川史談」(1~6巻)を発刊、戦後、先人の生活文化を求め、石碑、石仏、仏像等の研究に入る。以来氏は探究心が極めて旺盛で、直接目と耳で確かめた上でなければ筆をとらないと言う真摯な研究態度で発表された幾多の著書は斯界から高く評価されている。中でも「上山の石造文化財」には、20余年を費やし、また近著「出羽の善光寺式三尊像」は生涯をかけた著書であり、仏教美術の第1人者大阪工業大学の川勝政太郎教授は「史跡と美術」紙上で同氏の業績を高く評価している。
武田紙工株式会社社長、山形県文化財保護協会幹事、山形市文化財保護委員、山形市史編集員、上山市文化財調査委員長
明治34年西村山郡溝延村田井(現河北町)で村役場に勤務する父忠男、母みつゑの長男として生れた。山形県師範学校本科第一部卒業後学校の教師として教壇に立つ。在学中古代文学の研究を通じ文化史、経済史、流通史研究の道に入る。経済、流通史等については渋沢敬三(日本常民文化研究所主宰者)、郷土史については川崎浩良(第一回齋藤茂吉文化賞受賞者)の指導を受ける。学校の教師生活のかたわら、東奔西走して徹底的に調査追及するという研究態度であり、その発表の正確性について定評があるところである。特に「最上紅花史」の研究では我が国の第一人者であり斯界から高く評価されている。その他、県はじめ市町村史の編集委員として幾多の著書がある。中でも「河北町史」はその内容が豊富で今後の市町村史編集の方向づけを示すものと言えよう。
山形県史編纂員、山形県警察史編集委員、山形県議会史考証員、山形市史編集委員、寒河江市史編集委員、河北町史編纂委員長
明治25年仙台市原町の産婦人科医であった父長七郎、母みつの長男として生まれた。その後父長七郎が県立山形治療院医師として来県するに及んで、本籍を山形市銀町46番地に移した。氏も父と共に山形市に移り、山形中学校、第二高等学校、京都帝国大学工科大学電気工学科へと進んだが大正6年病をえて学業半ばにして帰郷した。病癒えて大正10年山形工業学校の教壇に立ち、大正13年長井中学校に転じた。以来三十年余同校の数学教師、名校長として幾多の生徒を育て、昭和28年退職した。その功により昭和42年勲四等瑞宝賞を受ける。
氏は幼少の頃より文芸に秀で、山形中学校の時から俳句の創作をはじめ、京都帝国大学在学中の大正3年頃、当時自由律俳句運動の先覚者河東碧梧桐の門人で、大学の同級生古川敏水(奈良県人)の勧めで「海紅」派の俳論家兼塚地橙孫らと交り「海紅」の同人となり、碧梧桐に師事する。大正6年帰郷して以来今日に至るまで自由律の俳人として創作が続けられた。
月夜の山道もなく冬が来る
大正11年の作であるが、大正から昭和のはじめにかけ、自由律の句作によって本県の俳壇に新風を吹き込んだ。氏の創作と指導は本県俳壇史のみならず、近代文学運動の旗手として光輝くものである。
白土会は、最上地方の油絵、日本画を中心とした美術研究団体で、最上地方の文化を高めようという高い理想をかかげ、地域にがっちり根をおろして活躍することをめざして昭和35年、新庄市を中心として住む絵画の同好者によって誕生した。会の名称の「白」は理想を、「土」は大地にしっかり根をおろすと云う意で名付けられた。会員は19名で、ひとり最上地方在住者のみならずひろく県内にわたっているが、かつて最上地方において画作の研さんに努めた同好の士である。会員は画作を本業とするものに限らず、ひろく各界にわたりしかも画風にとらわれず美の探究にはげんでいる。したがって会員は一水会、示現会、独立美術、モダンアート、新興美術等々に所属している。
会員の作品は県展をはじめ、中央の展覧会にも出品し、白土会員の活躍が高く評価されている。会のリーダー安孫子昭氏は昭和43年齋藤茂吉文化賞を授与された。
同会の活動は、日常の美術指導のほか、春秋二回の巡回展がもたれ、春は県都山形、地元新庄、庄内の鶴岡で開催される。
秋は新庄市芸術祭参加展、さらに最上郡内巡回展がある。これらの業績はひとり最上地方の文化の向上に寄与するばかりでなく、県内の画壇に新風をおくるものとして各界から高く評価されている。
明治24年鶴岡市で銀行に勤める父正、母梅枝の四男として生まれた。荘内中学、山形師範学校第二部卒業後教師として教壇に立つ。昭和11年、鶴岡市立図書館に勤務し、昭和30年に退職した。
氏は図書館に勤務するかたわら、庄内地方に散在する近世文書の発掘収集につとめるほか、郷土史研究者の育成をはかるとともに、幾多の著作活動を通じたその業績は、本県人文学界はもとより、各界各層から高く評価され昭和36年、高山樗牛賞を授与された。氏の発掘解読した古文書のうち、温海大庄屋文書、鶴岡町大庄屋文書、二口村文書等は、本県の近世史研究に極めて重要な文献であり、また北海道史の編さんのうえにも欠くことのできない貴重なものであり、氏の徹底的な調査追求する真執な研究態度とともに、本県の誇りうる偉大なる文化業績というべきである。
鶴岡市史編纂委員、鶴岡市文化財保護委員、山形県議会史考証員
明治44年東村山郡鈴川村(現山形市双月町)で紙漉業を営む父弥四郎、母きみの次男として生まれた。地元の鈴川尋常高等小学校を卒業後、山形市内の花店に店員として勤務、昭和4年はじめて山形市片町に花店を開業、池坊と小原流の研究のかたわら蔵王をはじめ近郊の山野を跋渉し自然美の探究につとめた。昭和18年山形32連隊に召集され渡満ののち、翌年中支に転戦、昭和21年復員帰郷する。この間、中国大陸に野生する草木の美しさに魅せられ、自然美再現の研究にはげんだ。帰郷後も蔵王雁戸の山なみ等を跋渉し、従来の形式にとらわれず、自由形として自然美の再現を試み、傾斜型を中間に三角形にし、客位の花と根本をバラバラにしない事にポイントを置き、季節感を加味して自然花の美しさを主体に、バランスのとれた花形、栖草流が誕生した。ときに昭和22年8月13日である。あたかも地方状況ご視察のため本県をご巡事あらせられた天皇陛下の玉座に、栖草流活花を献上し、8月16日ご高覧の栄に浴した。以来今日に至るまで中央花壇に互して脈々と拡大していくさまはまさに東北の尾根蔵王の雄姿のごとく嶄然と輝き、本県花壇の地位を高めた画期的な偉業は特筆に価するものである。
昭和45年「栖草流いけばな作品集」
栖草流家元、日本華道連盟理事
昭和16年作歌を始め、昭和24年2月結城哀草果に師事、同年2月米沢アララギ短歌会を主宰し、昭和31年同会を米沢赤光短歌会と改称、連続223回の歌会を行い、後進の育成を通じて歌壇の隆盛をはかったことは混濁している現歌壇にはきわめて希有な存在であり本県文化の向上に寄与した功績が大である。
長年にわたって、日本民俗学を中心に幅広い調査研究活動を続けており、特に修験文化の研究に関しては全国的な立場にあり、文化活動の功績は、きわめて顕著なものがある。
羽黒山中興覚書・出羽三山の修験道と神仏分離
修験道と民俗・羽黒山二百話・郷土の文化財(山形県の部)
みちのく歴史散歩(出羽三山の部)・日本文化風土記(出羽三山および庄内米の部)・日本祭礼風土記(山形編)
氏は、日本俳壇に革新をもたらした正岡子規の正統を汲む大須賀乙字の直弟子として、大正2年以来句作に専念し県下に新しい句風を興隆させた。
中央俳誌「石楠」「懸葵」「獺祭」に作品を発表して高く評価されている。
地方俳誌「桜月」「霞城」「霹靂」の選者としても活躍しており、作品は気品が高い清潔な感じのする農村の自然描写が多く高く評価されている。
俳句の外に20歳頃から西川菊畦らについて漢学を修業され、この道でも県下で稀少の学者である。
さらに、篆刻については、石井雙石の門に入りその道を極め、慈恩寺印、山形県招魂社印などの銅印は県の文化財的力作である。
氏は、昭和21年台湾より現住所に引揚げ後、台湾時代の短歌誌「台湾」を「黄」と改題主宰して、今日に至っており、誌友は県内のほか、北海道から九州にわたり350名を数え、庄内地方唯一の月刊短歌誌として地方文化の向上に大きく貢献している。
昭和7年短歌総合誌「日本短歌」(現短歌研究)の創刊にあたり、同誌編集以来一貫して中央、地方の歌壇を離れることなく、さきに山形新聞歌壇の選を担当し、現在は農村通信歌壇の選者と、酒田婦人短歌セミナールの講師を担当し、地域文化の向上に寄与している。
著書は「マカイ博士の業績」正続「支那事変歌集」随筆集「雪をんな」歌集「母川回帰」があり、近く随筆集「見えざる人」が刊行される予定である。
笹野一刀彫りは上杉鷹山公が特に農家の副業に奨励されたことから盛んになったが、氏は60年余にわたり一貫して一刀彫りの伝承に力を注ぎ、現在は斯界の最長老として後継者の育成につとめている。
氏の作品はそのすぐれた技術と格調の高さで国内はもちろん、海外においても名声を博しており、笹野一刀彫りの名を広く世界に知らしめた功績はきわめて大きいものがある。
また、笹野一刀彫り師として、16種類の製品を彫り上げるのは、現在氏以外にはないといわれている。
特に、氏は戦後いちはやく笹野一刀彫りの企業化と協同組合設立に尽力し、その後も輸出品としての品質の向上と規格化を進められるなど今日における笹野一刀彫りの隆盛は氏の力によるものが大である。
現在、78歳の高齢にもかかわらず、氏の子息、孫と親子三代で製作に励んでおり、氏によって育てられた後継者ともども郷土山形を代表する民芸品として地方文化の名声を高め、観光山形の一役を担っている。
氏は、山形大学教授として20余年、生物学を担当して多くの学生を育成したほか、その研究を通して水産業の発達、水稲の害虫対策の樹立などに貢献した。
県文化財専門員として、生物部門を担当し、県の天然記念物の保存顕彰に尽力している。
また、平和を願うユネスコ精神に共鳴し、鶴岡ユネスコ学校長を永年勤めたほか、山形大学退官後は、山寺生物学研究所を開設し、生物の研究と子供達の教育指導に励んでいる。
昭和17年「動物生態観察法」「動物観察記」、昭和18年続「動物観察記」「珊瑚礁と貝」「南海の驚異」の中の「生物学大系」、昭和40年「貝の科学」、昭和41年「わたしの野生動物記」、昭和42年「サケの一生」、昭和44年「パラオの海とサンゴ礁」、昭和45年「吉林の終戦」、昭和46年「水田の世界」、昭和48年「自然とわたしたち」、その他研究論文が多数ある。
大正3年生まれ。戦後、県内詩人の研究交流をはかるため、山形県詩人協会を結成し、その中心となる。
日本未来派同人、日本ペンクラブ、日本現代詩人会会員、詩誌「不在」主宰、県芸文会議常任理事。
詩集:昭和28年「狼人」、昭和29年「死の行方」、昭和32年「神の指紋」、昭和41年「冬の旅」、昭和45年「風の道」などを出版するかたわら、詩誌「詩人集団」、「北方」、「不在」などを編集主宰し、若い詩人の指導育成につとめている。
一方、詩人伝「金子光晴・青春の記」(昭和47年新人物往来社刊)「金子光晴・さまよえる魂」(昭和49年新人物往来社刊)の刊行は単なる詩人にとどまらず、この道の調査研究にも情熱を注いでいることを如実に示すものである。
目下、山形新聞に「北の明星」執筆中である。
明治39年生まれ。昭和22年以来文部省の嘱託をうけて、国宝、重要文化財など建造物の修理技術者として活躍。
国宝瑞巌寺本堂(宮城県)の修復工事をはじめとし、同じく国宝立石寺根本中堂(山形市山寺)、須磨神社(滋賀県)等の修復にあたり、また重要文化財については慈恩寺本堂(山形県寒河江市)、羽黒山五重塔(山形県羽黒町)、弘前城(青森県)、古四尾神社(秋田県)、国分寺薬師堂(宮城県)、奥の院弁天堂(福島県)等のほか12件の修復工事にあたった。
これらの修復工事を通じ、たとえば奥の細道として知られている俳聖、松尾芭蕉にゆかりの深い本県最上町堺田の重要文化財「封人の家」(旧有路家住宅)の修復の際350年の間に部分改築されてきた建造物にもかかわらず1本の古い権首(さす)の断片から寄せ棟の大屋根に切妻の小屋根があったことを解明するなど、その修復技術は芸術の域に達しているものとして高く評価されている。
米沢地方において蒲生時代から盛んに使用された紅花が科学染料の普及により衰微の一途にあることを憂慮し、歴史ある文化的遺産を長く保存し、伝統工芸と地方産業の振興に寄与すべくその復元に一家あげて多年地道な研究を重ね、その実用化に成功し、更に伝統を継承しつつ新時代に即し紅花織物生産普及に努め米織の声価を高めた。
その間、同女史の手により製造した伝統美あふれる優雅な作品は、昭和41年第13回日本伝統工芸展をはじめ日本染飾展等多くの作品展に入選したほか、昭和47年第15回山新三P賞を受賞するとともに、紅花染めについては多くのテレビを通じ全国に放映紹介されるなど、紅花織一筋にその情熱を傾倒し伝統工芸の振興に寄与した業績は大である。
昭和28年、県立谷地高校に赴任、音楽教育にたずさわりながら、谷地女声合唱団の指導、強化にあたる。昭和32年、県立山形東高校に転勤後、新混声合唱団フリッシェコール、山形木曜会合唱団(混声)、タウベンコール(女声)などを組織し、その指導にあたるが、現在は嚶鳴女声合唱団を組織指導し、昭和48年の全日本合唱コンクール一般の部において全国銅賞に入選を果した。
又、その間、山形市役所合唱団「さざなみ会」を指導し、全日本合唱コンクール職場の部において5回全国大会出場し、上位入賞をなすと共に、アマチュアオペラの公演を開催するまで成長させた。
高校にあっては、昭和32年には県立山形東高校に、同42年には県立山形西高校に奉職し、現在に至っているが、谷地高校赴任以来、昭和48年まで一貫して音楽教育につとめ、その間数多くのコンクール大会に各高校音楽部を出場させ、特に昭和36年(山形東高)並びに昭和44年から48年まで5年連続(山形西高)、NHK全国学校音楽コンクール全国大会優勝の偉業をなしとげた。
また、昭和46年と48年には全日本合唱コンクール全国大会において優勝するなど、合唱指導者として全国的に高く評価されている。
なお、そのほかにもNHK全国学校音楽コンクール県大会優勝14回、同コンクール東北大会優勝10回、同コンクール全国大会準優勝2回、同コンクール東北大会入賞4回、全日本合唱コンクール県大会優勝18回、同コンクール東北大会総合優勝5回、同コンクール東北大会入賞9回、同コンクール全国大会入賞3回と輝かしい業績をうちたて、これらの功績により、昭和48年には県教育功労賞、同49年には山新3P賞(平和賞)を受賞するなど、学校音楽、社会音楽の両面にわたり幅広い活動を続けている。
明治41年生まれ。新庄中学卒業、酒田新聞社、週刊酒田、出羽新報社、日刊庄内社、サンデー庄内記者を経歴し、本間美術館副館長、山形新聞社論説委員
早くから郷土史の研究にとりくみ、郷土史に関する執筆活動によって地方文化の向上に寄与した。
また、文芸活動並びに美術振興においても顕著な功績があり高く評価されている。
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