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更新日:2024年2月20日
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『栗子隧道』は、明治初期に「東北地方の産業復興の基盤」として建設された山岳トンネルで、当時としてはわが国で最長の隧道であった。
首都圏と東北地方を結ぶ大動脈である栗子隧道の開通は、物流を安定させて経済の発展を促し、人々の生活に豊かさをもたらした。
初代県令三島通庸は、「山形県の発展の為には、米沢から福島経由で東京に至る道路の整備が重要である」との判断から、刈安新道の整備を行ない、その一環として栗子隧道が施工された。
それまで、奥羽山脈を越える山形・福島間の道路は、川越石から栗子山の南鞍部を通って福島市の大滝に至るもので、この峠は標高が高く地形は急峻で、道路としての利便性は低いものであった。そのため、往来する人々は板谷峠を越えることが多かった。
栗子隧道は1876年(明治9)12月着工、1881年(明治14)に完成、標高900メートルの位置に掘られた延長870メートルの山岳トンネルで、馬車や人力車が通行でき、冬はそりでの通行が可能になった。
工事の進行にあたっては、岩盤をノミなどで素掘する当時のわが国の土木技術では困難を極めたため、オランダ人技士エッセールを招聘したり、当時世界で3台目となる穿孔機をアメリカから導入するなど、欧米の先進技術の導入にも積極的であった。
完成の翌年には、明治天皇が東北巡幸の際に刈安新道を通過され「萬世大路」と命名された。その後、自動車による通行を可能にするため、1933年(昭和8)から1936年(昭和11)にかけて改修が行なわれ、これが2代目のトンネルとなった。(初代トンネルの名称は栗子山隧道で、2代目は栗子隧道と改称された。)
さらに、1961年(昭和36)に新しいトンネルに着工し、1966年(昭和41)に完成した。これが現在の国道13号で、トンネルとしては3代目となる。
2代目の隧道(栗子隧道 昭和11竣工)
初代の隧道(栗子山隧道 明治14竣工)
山形県米沢市万世町大字刈安字栗子森
※ 栗子隧道トンネル内の見学はできませんが、隧道までの散策は萬世大路保存会でガイドしております。詳細は下記の連絡先へお問い合わせください。
【連絡先】
萬世大路保存会事務局(万世コミュニティセンター):0238-28-5381
明治14年、明治天皇は山形巡幸の最終日、栗子隧道(刈安・中野新道)の開通式に臨席された。そのときに飾られたのが、三島通庸が洋画家高橋由一に依頼して描かせた三枚の絵画である。
一枚目は、栗子山隧道図(西洞門)で、文字どおり栗子隧道の完成を描いたものである。これは明治天皇に献上されて宮内庁の所蔵になっている。(栗子山隧道図(西洞門・大))
二枚目は、明治14年に暗殺された内務卿・大久保利通の肖像画である。東北地方開発の重要性を認識していた大久保は、三島の土木政策のよき理解者であった。これらの事業を支援した大久保に対して、その感謝の気持ちを込めたものであろう。(大久保甲東像 東京国立博物館所蔵)
三枚目は、米沢藩の上杉鷹山公の肖像画である。栗子隧道の工事では、旧米沢藩や地元住民の協力が大変大きかった。また、かつて米沢藩でも隧道建設を企画したこともあって、三島は米沢の象徴である上杉鷹山公の肖像画を掲げて、地元への感謝の気持ちを表現したものである。(上杉鷹山像 東京国立博物館所蔵)
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