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更新日:2021年1月29日
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『新庄駅機関庫及び転車台』は、明治36年に開業した新庄駅と同時に竣工した。
新庄駅は、奥羽本線と陸羽東線、陸羽西線が接続する場所であり、奥羽本線の真室川と院内間の院内峠では、かつて補助機関車が使われるなどで、これらの運行を支えるために新庄機関庫は大変重要であった。
この機関庫は、明治36年の開業当初から現在に至るまで、鉄道の安全運行のために列車の整備を行っている。
新庄駅機関庫は、1903年(明治36)に竣工した旧国鉄の機関庫で、奥羽本線の米沢駅(明治32年)、山形駅(明治34年)、舟形駅(明治35年)に次いで開業した。
開業当初の新庄駅の構内平面図に記載された記述によれば「駅と同時に発足した機関庫には、B六型機関車5~6台が配置」されていたと云う。
米沢、山形、舟形の各駅の機関庫は既に解体されており、開業当初の国鉄の機関庫の姿を留める貴重な建物である。新庄駅機関庫建物の主要部であるバットレスは、オランダ積みの赤レンガで壁面が構成され、建物前後の延長部分は木製である。小屋組は、製材と鉄製部材を組み合わせたトラスである。
整備を終えた「リゾートみのり」
建物の主要部であるバットレスは、オランダ積みの赤レンガで壁面が構成され、建物前後の延長部分は木製である。小屋組は、製材と鉄製部材を組み合わせたトラスである。
新庄駅転車台は機関庫と同年に造られ、その後大正期に、少し離れた今の場所に移設された。現在も使用可能な状態に整備されている。
山形県新庄市多門町新庄駅構内
【赤レンガ機関庫は原則非公開】
開業当時の風景として「新庄市史 第四巻」に下記の記述が見られる。
「客車は四輪馬車に似た粗末なもので、腰掛は板の上に薄縁畳を敷いた八人掛けであった。照明は、長い間灯油であったので、駅夫はランプの掃除、灯油の交換などに忙殺された。客車の出入り口は、外開きのハンドル付扉で、発車の際は駅長が扉の閉鎖を確認し、クラッチをかけてから機関士に発車の合図を送ることと定められていた。また、列車の進行中は車窓を開けることは禁じられていたが、車内には便所がなく、やむなく車窓をあけて用を足したところ、罰金をとられたという話も伝えられている。」
ちなみに、山形までの所要時間は約2時間10分程度であった。
この鉄道が開通する以前は、最上川や日本海を通じて京都・大阪を中心とする関西経済圏との結びつきが強かったが、開通以降は東京・横浜などを中心とする関東経済圏に直結するようになり、新庄の産業や経済に大きな影響を与えた。
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