更新日:2020年9月28日

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山形ものがたり YAMAGATA'S STORY

山形ものがたり YAMAGATA'S STORY

いいれきし山形の歴史文化編

北前船

Merchant ships~Kitamae-bune~

日本海を行き交う船群、豪商の繁栄、湊の華やぎ。
命を懸けてもたらされた豊かさは、現代の街にも面影を残す。
北前船が伝える、歴史の浪漫。

日和山公園の北前船

江戸時代から明治期にかけて、「北前船」と呼ばれる商船群が活躍しました。北前船とは、決まった船の形状や大きさの種類を指す名前ではありません。北海道と大坂を結ぶ日本海側の西廻り航路を行き来し、各地で特産品を売買していた船の総称、つまり、事業スタイルの一つと言った方が良いでしょう。全国を股に掛けた北前船交易は、商人たちに莫大な富をもたらし、各地の文化の交流に大きな役割を果たしました。

北前船交易で発展を遂げた港町の景観や文化は多彩で、それぞれ独自性を持っていました。中でも、最上川流域で作られた米の集積地だった酒田の街並みは、大規模な船主集落があった他の地域とは一味違った、商人の繁栄に武士の存在が入り混じる独特の趣があります。豪商・本間家の旧本邸は、生活スペースだった商家造りと、武士を迎えるための武家造りが一体となった珍しい構造。広々としていながら質素とも言える風情に、粋なもてなしの心が感じられます。


本間家旧本邸

 

神社仏閣がひときわ豪奢なのも、酒田の特徴のひとつと言えます。商人たちは、武士の手前自らの邸宅を華美にしなかった一方、神社仏閣には惜しみなく寄進していたのです。「板子一枚下は地獄」と言われ、遭難や事故の可能性を排除できない命懸けの北前船交易において、神仏に航海の安全を祈る意味があったに違いありません。

船乗りたちが天候を予測するために登った日和山からは、最上川が注ぐ港を見渡すことができます。多い年で、春から秋までの間に2,500~3,000隻もの船が来ていたとか。正徳年間(1711~1716年)に描かれた「酒田袖之浦・小屋之浜之図」を見ると、大きな千石船は少し遠くの方に、それよりも小さな六、七百石以下の船は陸地近くにずらりと並び、商船の積み荷を陸まで運んでくる小舟が数多く行き交っていたことがわかります。


酒田袖之浦・小屋之浜之図 酒田市指定文化財

 

北前船の名残を感じるのは、景観だけではありません。関西弁まじりの歌詞で当時の隆盛を伝える民謡「酒田甚句」、上方雛を見て回る春の行事「雛見」、芸妓を平成に入り復活させた「酒田舞娘」、京の文化を取り入れて発展した「山王祭(現・酒田まつり)」。現在のまつりの賑やかさには、江戸文化の影響も感じます。山形の海の玄関口ならではの、新しいものを受け入れる開放的な気風と、各地の文化が混じり合った面白さがそこにあります。

明治半ばになると、北前船は陸路の発展とともに次第に姿を消していきます。米を保管するための巨大木造倉庫「山居倉庫」は、輸送と経済のシステム大転換期の中、明治26年から大正5年にかけて建設されました。当時は15棟あったうちの12棟が現存。日本海からの強い潮風と日光を遮るためのケヤキ並木が、倉庫群のそばで枝を伸ばしています。
酒田の街は、300年以上の時を経た今もなお、連綿と続いてきた歴史の息吹と、多様な文化が凝縮された湊町の風景を私たちに見せてくれるのです。

~このストーリーは平成29年度に文化庁「日本遺産」に認定されています~

<取材協力>
公益財団法人本間美術館、酒田市日本遺産推進協議会


山居倉庫

 

ひとくちメモ

庄内の豪商、本間家の栄華を感じる

「本間美術館」は、庄内地方の大地主であった本間家が収集した美術品や建築物を保管・展示する美術館で、4代光道(1757~1826)の時には6艘の船を所有していたとされています。同施設内にある京風の純和風建築「清遠閣」および庭園「鶴舞園」には、風流な工夫や遊び心が随所に施されており、北前船などによってもたらされた当時の隆盛ぶりが感じられます。

お問い合わせ
公益財団法人本間美術館
〒998-0024 山形県酒田市御成町7-7 電話番号:0234-24-4311

参考サイト

山形ものがたり

  • いいもの山形の産業編

  • いいれきし山形の歴史文化編

  • いいながめ山形の自然編

  • いいじかん山形の祭り編